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第21話
もう限界かもしれないと思いながら、それでも何とか毎日を続けている。自分にはこの日々を壊すだけの勇気がないことは分かっていた。だからきっとこの先何があっても、奥歯を噛む回数は増えても、結局現実の前に無力なのだろうと、柴田は諦め半分思っていた。怠惰な日々を続けることに意味があるとは到底思えないが、それにピリオドを打つ気力がそもそももうない。そんな中、仕事だけが柴田の気持ちを奮い立たせてくれ、日々に活力を見出してくれる。仕事をやっている間は、それだけを考えられるから、他の感情に格好悪く振り回されたりしなくていいから、柴田には一層スケジュールをタイトにすることを覚えたし、そしてその中で生きることを不思議と苦しく思わないのだ。仕事があって良かったと、それでもまだ真中の背中を見て思う。背中だけならまだ安心だった。だから時々、背中を見ては溜め息を吐いている。
「柴さん」
呼ばれてふっと顔を上げると、堂嶋が自分のデスクのすぐ側に立っていた。今日は堂嶋の班の誰かに外に出ていると聞いていたが、何かあったのだろうか。彼とは氷川の件で一緒にやっている関係で、おそらく自分に用事など十中八九それなのだろうと思ったが、若干嫌な予感がする。堂嶋は柴田と目を合わせると、少しだけ困ったような顔をした。堂嶋は何かと言ってその眉尻を下げていることが多い。勿論リーダーを任されているだけあって仕事は良く出来るのだが、広い視野で物事を見るのが不得意で、多くのことを同時進行させるのは苦手、というのが堂嶋に対する柴田の内なる評価であった。
「どうした、お前氷川さんのとこに行ってたんじゃ」
「それなんですけど、クライエントから今日こんなの届いて、また変更みたいですよ」
「はぁ?やっと決まったんじゃないのかよ」
どうしていいか分からないという表情で堂嶋が柴田に差し出したのは、クライエントから届いたメールをコピーしたものだった。多忙な余り打ち合わせることもままならなかった氷川とも方針の合意が取れて、これからやっと現場を動かせると思っていたが、どうやら甘かったらしい。メールに目を通して、柴田はひとつ深く溜め息を吐いた。また面倒臭いことになりそうだった。
「とりあえず俺、これから予定通り氷川さんのところに行ってきます」
「おう、頼む」
氷川の名前だけで震えていた頃とは違い、何度も顔を合わせるようになって、堂嶋も徐々に彼の特異さに慣れてきたのだろう。さらりと口から名前が漏れる。持っていたグレーのジャケットを着て、立ち去りかけた堂嶋が、何かを思い出したように振り返る。
「柴さん、真中さんにこのことって伝えといたほうが良いですかね」
「あー・・・分かった、俺から報告しとくわ」
「すいません、行ってきます」
「ご苦労様」
去っていく背中に小さく呟いて、柴田は自分の椅子に深く腰を掛けるとふうと息を吐いた。真中と話をしなければならないことが、日に日に重荷になっている。こんな仕事の報告でさえ、もう誰か別の人間に押し付けたい気持ちでいっぱいになる。仕事は仕事、プライベートはプライベート、と胸中で呟いて何とか自分を納得させると、柴田は重い腰を上げた。今日、真中が事務所の何処かにいることは分かっている。所長室にいるかなと思ったが、ノックに中からは返事がなかった。丁度良かった。どんな理由でも今、密室で二人きりにはなりたくなかった。堂嶋が持ってきてくれたメールのコピーを持ったまま、柴田は廊下を歩いていた。何処か会議室にでも入っているのか、そもそも今真中は一体何の仕事をしているのだろう、自分も別の案件を抱えているからと氷川のそれを自分たちに押し付けるように任せておいて、まさか何もしていないわけではないと思うが。いつも把握しているそれが、柴田の頭の中から不思議とすとんと抜けている。すると廊下の向こうに真中の黒いシャツが見えて、柴田は足を速めた。真中の背中が廊下を曲がって会議室に入った。
(あ)
何となく嫌な予感がして、その後を追いかけてはいけないと思ったけれど、柴田の足はゆっくり会議室に近づいて行った。中から声が聞こえる。真中が誰かと話している、会議室の扉が完全に閉められずに、僅かに光が漏れている。駄目だと頭では分かっているけれど、柴田はそれにゆっくり手を伸ばして、少しだけ開いた。真中の背中が見える。笑ってそれが揺れた。
(・・・まなかさん)
そこで大声で名前を呼んで、真中の注意をこちらに引き戻せば良かったのに、柴田はそれをしなかった。真中の目の前に日高が立っている。何か作業中に呼ばれたのか、手には資料らしき白い紙が幾つも束になって握られている。日高の丸くて大きい目が、背の高い真中の方を見上げている。その目元はほんのりと赤い。そんな風に誰かのことを、体裁や立場なんて抜きにして誰かのことを、純粋に思うことだけで良かったのに、柴田はそれが出来ない自分を恨んだ。そっと閉めようとして、真中の背中がゆっくり動くのが見えて、柴田は指を急に止めた。いけないと思うのに指も足も動かない。日高の目が一瞬、焦ったように揺らいで、真中がその肩を掴むのとほとんど同時くらいに目を閉じる。柴田は足を一歩後退させた。けれどそれではもう間に合わなかった。真中がゆっくり日高の唇を塞ぐのがはっきり見えて、柴田はくるりと踵を返した。
「・・・―――っ」
こんなことでいちいち馬鹿みたいに傷付いたり、苦しがったりしたくなかった。自分だけは自分の足でしっかり立っていると思ったから。立てていると信じていたから。今更と繰り返しても、どこかで本当は自分の気のせいなのではないかと思っていたことに、柴田は今になって絶望していた。もう逃げ場なんてどこにもない、あんな決定的なものを見てしまったらどんな言葉でも自分を誤魔化せるとは思えない、どうしようもないのだから。諦めて飲み込んでなかったことにするか、このまま傷つき続けるか、どちらにしても不毛な選択肢だ、笑えるほど。どうしようもなく廊下を走っていると、前からやって来た所員の誰かにぶつかりそうになってハッとする。足を止めると所員の鹿野目カノメも吃驚したように柴田を見下ろしている。
「悪い・・・」
「いえ、大丈夫です」
「ごめんな、気を付ける」
普通なふりを、いつも通りを、呟いて柴田は出来るだけ平常の自分を取り戻そうとする。けれどそれを思えば思うほど、いつもの自分がどんな風だったか、もう全然、思い出せなかったりするのだ。頭を掻いて、柴田は今度はゆっくり歩きだした。
「柴さん」
すると後ろから呼び止められる。振り返ると、ぶつかりそうになった鹿野目が、無表情でこちらをじっと見ているのと目が合った。
「どうした、何かあった?」
「いえ、あの」
彼は一瞬言い淀んだ。
「柴さん、大丈夫ですか?」
「俺?」
「顔色、酷いですよ」
「・・・―――」
どうしようもなかった。
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