26 / 36

第26話

自分の右手を握って、頬を上気させておろおろとする逢坂を実に冷静な目で見ていた真野だったが、ふと自動ドアの向こうに目を向けた。そこを潜って行ってしまった客の姿は勿論もうここからは見えない。相変わらず店内は閑散として、お気楽な店内放送が無駄に響いて聞こえる。 「逢坂、お前にひとつ、良いことを教えてやる」 「え?なに?」 「あのひと、男だぞ」 「だ、だいじょうぶ、俺バイなの」 「―――!?」 今度は真野が頭を抱える番だった。 「はぁ!?バイ?」 「う、うん、男もいけるから全然だいじょうぶ」 「大丈夫なわけあるか!知らずに俺は・・・お前とずっと・・・」 「大丈夫、真野っち全然タイプじゃないから」 「うるせぇ!爽やかな顔で言ってんな、気色悪ィ!」 「ねぇねぇ、それより、それよりさーあ、あのひとウチのコンビニ良く来るの?真野っち知ってる?」 真野にとっては重大事由だったのに、それを吐露した本人は自棄に暢気に話を続けている。もう少し青い顔をして頭を抱えていたかったが、どうやらそうも出来ないらしい。真野はげんなりしながら、制服を引っ張ってくる逢坂の手を払った。 「知らん」 「ねー、また来るかな?名前なんて言うんだろ、付き合ってる人いるかな?」 辛辣に真野があしらったにも拘らず、目をきらきらさせて逢坂が話すのを、真野は複雑な気持ちで見ていた。素性のよく分からぬ客なんかにそんな感情抱いたところで無駄なのに、それより学内にいる若くてかわいくて触ると柔らかくて良い匂いのする女の子相手にしていたほうが良い。逢坂にはその方がずっと似合う。自分と違ってそこそこにモテるのだから、と思ってひとつ溜め息を吐く。 「なぁ、マジで言ってんの、逢坂」 「俺はいつでもマジだよ」 言いながら逢坂が片目を瞑るので、真野にはそれが本気なのかどうか分からない。けれど逢坂はこんな身なりをしているせいでチャラチャラしていると思われがちだが、いかにも真面目な真野より遥かに目の前のことに対して誠実だった。人間関係もそうだったし、講義もサボらず出席し、勉強だって真面目にやっている、それは良く知っている。だから友達からの誘いにはいつも愛想よく断らないし、テスト期間にはちゃんと勉強していたり、付き合った女の子に逆に浮気をされて別れる羽目になったりしているのだ。 「あの人、多分近くに住んでる。良く来るから」 「え?」 「時間わりとまちまちだけど遅いことが多いかな、夜のシフトんときよく見かけるし」 「真野っち!」 図体の大きい逢坂に横から抱き付かれて、真野は自身の体を支えきれずにふらふらとレジのカウンターから離れることを余儀なくされる。ぎゅうぎゅう抱き締めてくる逢坂の体を押しやって、何とか間にスペースを作る。先程バイと自己宣告してきた男にべたべた触られるのは、逢坂にその気がないのは勿論分かっているが、何となくいい気分のするものではなかった。 「やっぱり真野っち頼りになるぅ」 「お前には色々借りがあるからな」 「あ、ノートね、いつでもばっちりだから任せて」 「どうも」 何となく苦い気持ちで、その時真野は浮足立つ逢坂のことを眺めていた。 翌月配られたシフト表に、逢坂の名前が格段に増えていて、真野は少し背筋が寒くなった。やはり逢坂は彼が言った通り、本気なのだろうと思った。何度か見かけたことがある客の顔を思い出そうとしたが、真野はそれを上手く思い出すことが出来なかった。背丈がある割には華奢で、いつも暗い表情であることくらいしか、思い出すことが出来ない。逢坂がまるで彼のことを知らないみたいに、自分も良くは分からなかったが、そんな得体の知れない相手に、そんな感情を簡単に育たせてしまう逢坂のことが、真野は呆れ半分、信じられなかった。そんな指先が触れて痺れたくらいのことなんかで。 「真野っち、見てこれー」 「・・・なにそれ」 それから何日か経って、またふたりでシフトが一緒になった時、逢坂がにこにこの顔で真野に見せてきたのが、例のノートだった。真野は逢坂が手渡してきたノートを何ともなしにぺらぺら捲った。日付と商品の名前がずらっと書かれている。 「やっぱ流石真野っちだよね、夜入ったら何回か会えたよ!」 「・・・お前これ」 「俺ね、手始めに買ったものメモることにしたんだ」 「ストーカーだな・・・きもちわる・・・」 「違うよ!ストーカーじゃない!」 「いやこれ訴えられたら負けるぞ」 また見た目をいい意味で裏切って、逢坂の字は綺麗だ。だから真野は逢坂にいつもノートを借りている。逢坂はちゃんと出席してノートを取っているだけではなくて、綺麗で読みやすいというポイントつきなのだ。それを本人に伝えたことはないのだが。真野がいつもお世話になっているノートに並ぶ字と同じ字で、そこには彼の買ったらしいものがつらつらと書き連ねられている。こうして見るとたまに来る程度だと思っていたその客は、ほとんど毎日来ているようだった。 「俺さ、これ書きはじめて気付いたんだけど、買うものすっごい偏ってるんだよね。ごはんとかパンとかそういうの買わないの、いっつもデザートみたいなのばっかり。自炊派なのかな」 華奢な背中をぼんやり思い出して、真野は袋を出しやすいようにと一枚ずつ折り返していた手を止めた。ここのコンビニはあんまり繁盛していないおかげで暇でいいのだが、何もすることがないとそれはそれで時間を持て余してしまっている。だから逢坂の雑談を半分以上受け流しながら、真野はいつも手元でできる内職みたいなことをしている。逢坂は接客はするが、そういうことは余りしたがらない。 「自炊はないだろ、あのひとすごい痩せてるし、多分食べてないだけだろ」 「え、そうかな?それ駄目じゃない?」 「あんな遅くに帰ってきて自炊はないね」 「そうかぁ・・・それはちょっと、心配だなぁ」 隣でしゃがんだ逢坂が憂い目をして誰かを見ている。真野はそれを少し高いところから見下ろして、やはりその目元に広がる淡い色は恋愛感情で間違いないのだと思った。真野はもう一度その人のことを思い出そうとしてみたが、やはりうまくいかなくてぼんやりと霧にかかる。

ともだちにシェアしよう!