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第28話
はぁと口から出た息が自棄に大きく聞こえて、柴田は唇を意識的に閉じた。逢坂は自棄に冷たい目をして、こちらを見ている。今まで逢坂のこんな視線に晒されたことがなかった。彼はいつもこの部屋の中で薄っぺらい微笑を張り付けていただけだったから。指先が震えている、ノートを握る指先が震えている。それが一体どういう感情なのか、柴田にはよく分からない。こんなことをふたりの間で明らかにして、それで一体どうなるのだろう。そう考えたのは一瞬だけで、後は脇目も振らずに、ただその疑問を逢坂にぶつけていただけた。生温くて居心地のいい関係はいずれ終わる、いずれ逢坂はこの部屋には来なくなるだろうし、ひとりで泣きたい夜に傍で頭を撫でてはくれなくなる。そんなことは分かっていた、勿論分かっていたし覚悟もしていたけれど、その終わり方がこんな風になるとは思っていなかった。冷たい目の奥が微かに揺らいでいて、逢坂もきっと何かを思案して混乱して動揺しているのだろうと思ったけれど、その表情は鋭く無表情に尖っていて、焦燥は表面に出て来なくてもどかしい。そんな風に取り繕う必要がそれでもあるのかどうか、柴田には分からなかった。そもそも目の前に立っている逢坂が、最早一体何者で何を考えて何を目的にしてここにいるのか、柴田にはもう分からなくなっている。胸に抱く美しい文字のノートが真実なのか、それともこの部屋の中で恐ろしく軽薄に口角を上げた男が真実なのか、白熱灯の下で優しく笑ったコンビニ店員が真実なのか、柴田にはもう分からない。
「強情だなぁ、侑史くんは」
困ったように眉尻を下げて、逢坂は両手を上げた。その表情は見たことがある、柴田はそれを見ながら僅かにほっとしていた。まるでテレビの中で銃を向けられた銀行員が、強盗に報復のポーズを取るみたいに、チープなポーズだと思った。柴田は震える指で、ノートをきつく握った。もう何を信じて何を疑えばいいのか分からないけれど、このノートを逢坂に渡したらそれですべて終わりだということは分かっていた。それを見ながら逢坂は唇に微かに笑みを浮かべて、ゆっくりと首を振った。
「そうだよ、それは俺が書いた、全部」
「・・・なんで」
「何でか聞くの、やめてよ、読んだら分かるでしょ」
ふっと俯いたまま逢坂は笑って、柴田はそれに急に不安になった。こんな風に、逢坂に突き放されるみたいに、言葉をかけられたこともなかった。一体何が真実で何が嘘だったのだろう。そもそも嘘も真実も、この部屋にはあるのだろうか、はじめからどちらもなかったのではないだろうか。逢坂がゆっくり顔を上げる。金髪の向こうから黒い目がふたつ、こちらを見ていた。良く知っているはずの逢坂のことを、何も知らないと気付いた夜に、ただ目の前にいるその男のことですら、柴田は確証が得られないでいる。
「侑史くんのことが好きだからだよ」
優しいコンビニ店員は毎度何かを言い淀んでいたけれど、結局最後までそれは言わなかった、この部屋にほとんど土足で押し入った軽薄な男は、何度もそれを耳元で囁いたけれどそれは性欲と表裏一体だった。その言葉は聞いたことがあるようで、良く知っているようで、いざ逢坂の唇から逢坂の音で聞かされると耳慣れないものだった。柴田はノートを抱えたまま、逢坂のことをじっと見つめた。幾ら見つめても分からなかった。逢坂の言葉をそのまま鵜呑みにしていいのか疑ったらいいのか、柴田にはそれを選別するだけの材料がない。知らないでいることを不安に思ったことはひとつもなかった。知ることの後悔のほうが大きいと思っていたからだ。どうしてそんな風に思ったのだろう。彼の生活がここを離れてどんな風に広がっているのか、敢えて見ないようにしたのには一体どんな意図があったのだろう、どんな無意識があったのだろう。
「そこに書いてある通り、俺は重くて気持ち悪い、侑史くんのストーカーだから」
「・・・―――」
ふっと諦めたように逢坂は笑って、それからそう吐き捨てるように言った。柴田の耳にそれはきんと冷たく聞こえて、柴田は何故か酷く目の奥が痛くて鼻の奥も痛くて、泣きそうになってしまった。そんな風に言って欲しくなかった、柴田が大事に胸の内に抱いているノートの中の美しい文字列は、逢坂が吐き捨てたその名前では絶対にない。絶対にないと思ったけれど、それを柴田はどんな風に逢坂に伝えればいいのか分からない。逢坂はまるで話がそこで終わったみたいに、床に丸まっている自分のTシャツを広げて、それを被って着ていた。柴田はそれに何も言えずに黙っていた。更に逢坂はテーブルの上の携帯を開けっ放しの鞄に放って、もう一度柴田の前に手を差し出した。逢坂の言いたいことは分かっている。
「返して、帰るから」
「・・・待てよ、なんで、こんな」
「もういいでしょ、もうこんな気持ち悪いこと止めるから、それ、返して」
「待てって・・・」
多分逢坂が本気を出せば、柴田が幾ら力を込めてノートを握っていたとしたって、無理矢理奪うことも出来ただろう。何度かその腕に乱暴に扱われたことがあるが、そういう逢坂の前で柴田は圧倒的に非力だった。けれど逢坂は手を出して柴田にそれをしつこく促したけれど、それを奪い取ることはしなかった。ただ困ったように柴田が一層ノートを強く抱くのを、眉間に皺を寄せて見ていただけだった。
「やっぱり今日、来なきゃ良かった」
「・・・え?」
「いつも家にちゃんと置いてくるのに、侑史くんが寂しそうに俺のこと誘ったりするから」
「・・・しずか、お前、ほんとは」
逢坂は器用に唇を上げて笑うと、くるりと柴田に背を向けた。それだけで逢坂の考えていることが分からなくなる。コンビニ店員の笑った顔と、若い男が笑った顔がそれにダブってふたつとも消える。その時逢坂はそのどちらでもない表情を浮かべていた。それが逢坂だったのか、それが逢坂自身だったのか。今まで柴田が逢坂だと思っていたのは一体誰だったのだろう、一体誰のことを思って一体誰の背中に爪を立てていたのだろう。本当なんてふたりの間にあったのだろうか、柴田は頭を抱えて蹲りたかった。逢坂と過ごした日々のことを、話した全てのことを、思い出してひとつずつ、なぞって本当のことを探したかった。全部が嘘だなんて思いたくなかった、逢坂の気持ちもそんな風に扱って欲しくはなかった。
「だからストーカーだって言ってるでしょ」
「違う、違うだろ、何でそんな言い方するんだよ。お前、こんな、大事に、何で黙って・・・―――」
「言ったら付き合ってくれたの、侑史くん」
「・・・―――え?」
ふっと逢坂が振り返って、柴田は急速に体の奥が冷えるのを感じた。逢坂がまた口角を上げたけれど、もうそれは笑っているようには見えなかった。
「俺だって馬鹿じゃない、馬鹿じゃないから色々考えたんだよ。どうやったら侑史くんが傍に置いてくれるのか」
「俺がこんなに重たく侑史くんのことを好きだって言ったらどうしてた?侑史くんは真面目で優しいから、それに真摯に応えなきゃって思って、きっと俺のことを傷つけないように優しくふってくれたよね」
「そんな重くて気持ち悪い気持ち、向けたって無駄なこと分かってた。でも軽薄な男だったら侑史くんだって罪悪感なく俺のこと傍に置いてくれると思って、傍にさえいられたら侑史くんが弱った時に慰めることくらいできるでしょ。この形が正解じゃないことくらい分かってるよ、俺だって馬鹿じゃない」
「侑史くんが報われもしないのに誰かのことずっと好きなの分かってたよ、俺といたってソイツのこと考えてる時があるのも分かってた。時々優しくされて舞い上がってるのも。それ見ながら喉掻き毟りたくなるの我慢するのに必死だったよ。側にいると色んなことが見えて辛かったこともいっぱいあったけど、でも楽しかった。好きだったから、そんなの全然気にならないくらい」
そこで逢坂は言葉を切ってすっと息を吸った。
「好きだったよ、侑史くん」
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