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第29話

美しい文字列のそれにふさわしい名前は、やっぱりそれだと柴田は思った。決して逢坂がまるで汚いものみたいに罵った、あんな名前ではなくて。また涙腺が刺激されて柴田の方が泣きそうになって俯く。逢坂は言いたいことを全部言って、満足したのかすっきりしたのか自棄に清々しい表情をしていた。それを言わせたのは結果的には柴田だったが、自分だけそんな風にすっきりして、と思わざるを得なかった。柴田は苦しいままなのに、逢坂の眼にはもう動揺も混乱も焦燥もない。いつもの逢坂に戻っている。いつもって一体何だろうと柴田はぼんやり考えた。この部屋で恐ろしいくらいの若さを暴走させてぶつかるみたいに濃密に抱き合ったことも、俯けば髪の毛を撫でて優しいことを沢山言ってくれたことも、全部柴田の隣にいるために逢坂が吐いた嘘だったけれど、コンビニの制服を着て優しく笑った逢坂も、二言目には性欲を吐き出して意味深に微笑んだ逢坂も、結局柴田の見ていた逢坂は、どちらかが本物でどちらかが偽物ではなくて、ふたりともちゃんと逢坂でそしてその向こうに、柴田の知らない重くてどうしようもない気持ちを抱えて俯くもうひとりの逢坂が存在していただけだということ。いつの間にか身なりを整えた逢坂が、ゆっくり柴田に近づいてきてその前に立つ。 「返して、もう、帰るね」 「・・・―――」 それを渡さなければならないと思った。柴田は胸にきつく抱いていたそれを、ゆっくりと手の力を緩めて握り直した。逢坂はそれを辛抱強く待っている。これを渡したらきっと逢坂はこの部屋には二度と来ないだろうし、コンビニのアルバイトだってやめてしまうだろうと思った。そんな風に簡単に、逢坂は自分の前からいなくなることができる。柴田は逢坂のことを何も知らないから。柴田はそれを逢坂に手渡そうとしてまたぎゅっと握った。受け取るために手を伸ばした逢坂が、ふっと息を漏らして笑う。 「・・・侑史くん?」 「どうして侑史くんがそんな顔してるの」 「泣きたいのは俺の方だよ」 ふふっと声を出して逢坂は笑った。嘘だ、泣きそうだなんて嘘だと柴田は思った。目の奥が痛い、瞬きをするとぼろりと涙が落ちてきて、その後は堰を切ったようにぼろぼろと涙が頬を滑って行く。逢坂が言うように、柴田だって分からなかった。何がこんなに悲しくて寂しいのか分からなかった。握ったままのノートを下ろしてそれをまた胸の内でぎゅっと抱いた。これを渡しては駄目だ。これを渡したら逢坂はここを出て行って二度と帰ってこない、きっと二度と会うことは出来ない。 「困ったなぁ、俺はもう侑史くんを慰めてあげられないのに」 「・・・しず、帰るな、ここに、いろ」 「ごめんね、もう都合の良い男は終わりだよ」 「違う、そんなんじゃ・・・―――」 「じゃあ俺の恋人になってくれるの、侑史くん」 困った顔をして少し迷いながら、逢坂は手を伸ばして柴田の頬を撫でた。涙の跡を擦って消すと、目からまたぼろりと涙が落ちてきて逢坂の指を濡らした。今度困った顔をするのは柴田だった。ほらねと逢坂は声には出さずに思って、意識的に唇を笑みの形にした。 「ごめん、こんなこと言われたって、侑史くんのこと困らせるばっかりだって、分かってるんだけど」 「でも最後にするから、ちゃんと最後に告白してもいい?」 柴田はずずっと鼻を啜って、何故か涙か止まらない目を擦って、逢坂を見上げた。そこで逢坂は優しい顔をして笑っている。 「侑史くん、俺、侑史くんのことが好きだよ。俺だったら侑史くんのことを一番に考えてあげるから、一番大事にするから。そんな思っても報われない上司のことなんか思うの止めて、俺の恋人になってよ」 「俺の恋人に、なってよ」 俯いて吐き出すみたいに呟いた逢坂の声が、柴田には今までにないくらいはっきり聞こえた。背中を丸めてこのノートに何か大切な自分の気持ちを記録するみたいに、毎日のように書いていた逢坂が、その時目の前に立っているのだと思った。あの日、コンビニの前で待っていて笑った逢坂が言いたかったことも、焼肉屋で手を握って言いたかったことも、全部全部、間違いなくそれだった。それだったのだと分かった、今になって。相変わらず目の奥が痛かったし、鼻の奥も痛かった。気を抜くとまた泣いてしまいそうだと思った。人前で涙を流して泣くなんて、こんなこといつからしていないのだろう。あの日、はじめて逢坂をこの部屋に入れた時、逢坂相手に自分の気持ちを吐露して、どうしようもなくて泣いた時のことを思い出した。あの時からだ、とぼんやり柴田は考えた。あの時も逢坂だった、俯いたら頭を撫でてくれたのは逢坂だった。一番に大事にしてくれる人がいるまで傍にいるよと言ってくれたのも逢坂だった。本当は自分がそうなりたかったのに、そうは言えずに黙って軽薄なふりをして、笑ったけれど辛くてどうしようもないから時々不自然で、そういうことが全部、柴田の脳裏を掠めた。 「・・・―――うん」 目の前で俯いていた逢坂が、ゆっくりと顔を上げる。吃驚したように見開かられた目の周りがほんのり赤くて、柴田はぼんやりと日高のことを思った。日高と同じ色をしている、日高が真中を見る時と同じ色をしている、そう思うと何だかとても不思議と穏やかな気持ちになった。 「侑史くん、いま、うんって言った」 「・・・言ったよ」 「うん・・・ってことはイエスってこと?え?なににイエス?どういうこと?」 「意味なんてひとつしかないだろ」 口から息が漏れて、口角が上がる。ちゃんと笑えている。逢坂を見やると顔を真っ赤にしてぶるぶる震えている。ますます日高みたいだと思って、柴田はそれを見ながら噴出していた。すると逢坂が目元を赤くしたまま複雑そうな表情をして、柴田の手首を不意に掴んだ。 「もういいの、上司のこと」 「・・・あー・・・うん、多分」 「なにそれ、多分って、俺の真摯な気持ちにそんな生半可な気持ちで返事して、悪いとか思わないの、侑史くん」 「怒るなよ、しずか」 「分かってると思うけど俺すっごい重くて独占欲も強くて束縛もきつい嫌な男だからね、途中で侑史くんが嫌になっても、俺は簡単には別れないからね」 「分かってるよ、お前が本当は純粋で真面目で馬鹿な男だってこと」 ふふっと柴田が笑うと、眉間に皺を寄せて逢坂はまたその表情を一層複雑そうにした。真中のことが頭を掠める。気持ちが消えたわけではない、もともと憧れが派生したような恋だったから、それがなくなることはきっと今後もないだろう。真中が氷川のことを任せるといいながらしつこく心配するみたいに。また真中に酷く胸の傷を抉られたりするかもしれないし、もう真中のことを見ても胸の傷は痛まないかもしれない。分からないけれど今は他のどんな気持ちよりも遥かにはっきり、目の前でまだ信じられないみたいな顔をして、何かを確かめるために躍起になっている逢坂の目が、どうしようもなく愛しいと思った。 「侑史くん、キスしていい?」 「なんで、そんなこと、聞いたことない癖に」 笑うと逢坂はまた困ったような顔をする。柴田は手を伸ばして逢坂の頭をぽんぽんと撫でて、そしてそれからゆっくり目を閉じた。

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