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第30話
「柴さん、これチェックお願いします」
「・・・お、おぉ。あれ、これ所長決裁だろ?」
「いいんです、柴さんの判子押しといてください」
目線を反らして疲れたように口角を上げた藤本は、緩いウェーブのかかった髪をかきあげた。真中がまた新しいプロジェクトに本腰を入れてしまったせいで、事務所を空けていて久しい。それで決裁やら何やら、滞っているものは多い。深夜近くふらっと帰ってきてそういうものを一切片づけようとしていたらしいが、この間それを偶然見つけてほとんどさせないで帰したことを思い出して、柴田はふうと息を吐いた。あれは自分が悪かったのかもしれないけれど、真中も疲れているところに神経を使う割に眠たい書類のチェックなんてしたくないだろうと思って、こんなの後で良いと言ってしまったのだ。やはり自分が悪かったのかもしれない。だが自分が判子を押すわけにはいかないから、せめて真中が判子をすぐ押せるようにチェックだけしておいたほうが良いかもしれないと思って、後ろめたい気持ちが柴田に書類を受け取らせた。
「分かった、見とくわ」
「・・・柴さん、最近顔色良いですね、何かあったんですか」
「えー・・・そう?なんもないよ、別に」
藤本から受け取った書類をぺらぺら捲りながら、それに何でもない風に返事をする。自分の日常はそんなに大きく変わっていない、と思う。多少の気持ちのゆとりと、タイトにし過ぎたスケジュールを少し緩めた程度くらいしか変わっていない、と思う。柴田は意識的に考える。気持ちの面は兎も角、スケジュール面は大きい。今まで自分で抱えていたことを他の所員に回すと少し吃驚されて、柴さんどうしたんですかと青い顔で尋ねられることも、最近は減ってきたと柴田はひとりで思っている。だから何となくそんなことを言われると、背中が痒いような気がして仕方がなかった。藤本はキャパが狭くてすぐ怒りが沸点に達する短気な性格な割に、結構鋭いところがあって、単純ではない分それは少しだけ面倒臭い。眼鏡のフレームを触りながらちらりと目線を上げると、用事は終わったはずだが、藤本はデスクに戻らずに、まだ柴田のデスクの前に立っている。
「柴さん疲れとかすぐ顔に出るから、心配してるんですよ」
「あぁ、クマ?これもう取れないんだよな、歳だな」
「やめてください」
藤本が笑いながら言う。言葉は否定しているが、笑っているということは、半分くらいは肯定されているのかもしれない。自分で言っておいてなんだが、それはそれで釈然としないと柴田は勝手に思った。クマなんてもう高校生の時くらいからずっと目の下にあるような気がする。柴田がコンタクトではなく、今も眼鏡を愛用しているのは、はじめはそのクマを隠すためだった。今となってはただ単にコンタクトが面倒くさくて、使い慣れた眼鏡のほうが良いという理由になっているのだが。
「私だけじゃなくて皆、柴さんに倒れられたら困るから」
「はは、ごめん。でも俺、倒れるまで働かないから、大丈夫」
「分かってるんですけど、ね」
その時藤本が考えていたのは友人の白石のことだろうかと、柴田はゆっくり思案する。氷川のことを連想しがちであるが、その白石という男も相当だったらしくて、またそれが真中のお気に入りで、氷川2号と裏で囁かれるほどには酷く面倒を見たらしい。柴田もその頃にはこの事務所にいたが、突然来なくなったこと以外、白石のことは良く知らなかった。氷川のエピソードが強烈過ぎて、余り所内では話題に上がることはないが、友人である藤本は他人の氷川より白石のことを思いやすいに違いない。疲れた顔をいつもしているのは藤本も同じだったが、そんな風でもそうやって人のことを無条件に心配できたりして、そういうところがきっと白石と友人で居るために必要なのだろうと、柴田はぼんやりと思った。
「柴さん、何飲んでるんですか、これ」
「え?」
仕事が多い割に、柴田のデスクはいつもきちんと整頓されていた。真中みたいに書類やファイルを積み上げたりしないので、物は多いがすっきりと纏まっている。仕事をするにはまず環境からという信念の元、どんなに忙しくても机の上を片付けることは忘れないようにしている。その反動かどうか分からないが、余り家の中は片付いていない。帰って眠るだけの生活でそんなに汚れていかないのだが、時々洗濯物が溜まりに溜まって行くのを見てゾッとすることがある。真中はその逆で、デスクの上はいつも雪崩が起きそうなほど汚いが、その分家は綺麗らしい。居住スペースは綺麗じゃないと絶対無理と話す上司に、できれば机の上も片づけて下さいとそういえば怒ったことがあった。要するにどちらもどちらかしか片づけられないのだ。柴田のデスクの端に栄養ドリンクとミネラルウォーターが並んで置いてある。栄養ドリンクの中身は空なので、後で捨てようと思ったところだった。藤本が指を指したのはその隣の派手なパッケージの紙パックだった。
「ジュースですか」
「うん、これ一応、野菜ジュース」
前面にオレンジの絵が描いてあるから、一見するとジュースのパッケージと相違ない。含まれている分量からいってもオレンジが一番多いようで、味もほとんどオレンジジュースを飲んでいるみたいだった。柴田は柑橘系の飲み物は大体どれも好きだったから、飲みやすくていいと思って、他にも果物の種類は色々あるみたいだが、あんまり冒険せずにいつもオレンジベースのそれを買ってしまっていた。気に入ると同じ物を延々飲んだり食べたりするのは、癖みたいなものだった。
「へぇ、柴さんそんなの飲むんですね、すっごい偏食なのに」
「偏食って言うな」
「だって偏食じゃないですか」
「違う、あんまり食に興味がないだけ」
柴田の反論を聞きながら、藤本が唇だけで笑う。若干馬鹿にされているような気がすると思って、柴田は眉間に皺を寄せたが、そんなことは全く気にならないようで、藤本は笑っているだけだった。偏食というと凄く子ども染みているような気がする。確かに食べ物に関して栄養がどうとか、今まで考えたことはない。何か食べられないものがあるわけではないが、野菜なんかは特に目の前に差し出されないとおそらく食べない。自分からはまず手を出さない種類のものだ。だからと言って肉や魚が良いわけでもなく、コメやパンが良いわけでもない。結局食べたいと思うのはヨーグルトとかプリンとかそういうものでしかない。結局これは藤本がいうところの偏食で間違いないのかもしれないけれど、何となくそれに首を縦に振る気にはなれない。
「なんで野菜ジュースなんか、柴さんが健康に気を遣ってるのは嬉しいことですけど」
「俺、野菜不足なんだって」
「え?誰かに言われたんですか」
「あぁ、うん。コンビニの店員に」
書類を目でなぞりながら、藤本のそれに答える。嘘はひとつも言っていない。自分の持っている籠に無造作にそれを放り込んだ時、彼は確かにコンビニの制服を着ていたはずだった。
「ふーん。私も飲んでみようかなぁ」
「結構いけるぞ、それ。野菜臭さがない」
「出た偏食」
藤本が可笑しそうに笑って言う。やっぱり馬鹿にされている気がすると柴田は思って、溜め息を吐いた。
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