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第31話

閑静な住宅街、夜になると車がほとんど道路を走らないので、とても静かで気に入っている。ここに住み始めて3年目、近くに1軒しかコンビニがないことを除けば、おおむね生活には満足している。毎日残業するのが普通になっていて、定時に上がれることなんてほとんどないのだが、今日は何故か定時ぴったりにやることがなくなってしまって、他の所員の様子を伺うと柴さんははやく帰って休んでくださいと言われる始末であった。日頃から仕事をし過ぎているせいなのか、最近よくそんなことを言われる。心配されるのは決して悪い気分がするわけではないが、何となく申し訳ないと思って、言われた通り事務所をそっと抜け出した。もうすぐ冬がくるらしく、日が落ちるのが早い。まだ定時だというのに外は真っ暗だった。薄手のコートの前をきっちり止めて、柴田はコンビニの駐車場に止めた車から降りる。事務所を出た時より一層、外の空気は冷えているような気がした。 (・・・さむ) 余り体に脂肪がついていないので、夏の冷房も苦手ではあったが、冬の寒さが特に体に染み渡る。本番はこれからだと分かっているけれど、今から気が重い。コンビニの自動トビラを潜ると、ぴろぴろと頭の上で来店を知らせる音楽が鳴った。 「いらっしゃいませ」 二の腕を擦っていた柴田は、そう声をかけられて視線を上げる。コンビニの制服を着た逢坂が、そこに立っていて柴田と視線が合うとにこっと笑った。 「今日早いね、どうしたの」 「あー・・・なんか定時で上がれた、珍しく」 「へぇ、良かった。最近侑史くん顔色いいね」 「・・・あー・・・うん」 ふっと逢坂の手に頬を撫でられて、それに何と返事をしたらいいのか分からなくて、柴田は曖昧に答えた。そう言えば昼間同じことを藤本にも言われた気がする。そんなにいつも酷い顔色をしているのだろうか。毎日自分の顔は見ているので、顔色が良いとか悪いとかは余程のことがないと自分では判断できない。少しだけ冷たい手のひらが頬から離れていって、夏場は良かったけれど冬場のあの手はちょっと嫌だなと柴田は思った。逢坂が当然みたいに籠を持って、柴田の少し前を歩く。柴田はその後ろを黙ってついて行った。今でも少しだけ、時々不思議に思うことがある。こんな風に逢坂がいつも通りの日は特に、あの日、柴田の部屋で全てのことが明らかになったことも、逢坂が俯いて見たこともない表情を浮かべていたことも全部、もしかしたら都合の良い夢を見ているのではないかと思うことがある。逢坂は相変わらず閑静な住宅街に一軒しかないコンビニでアルバイトを続けている。長い金髪も柴田に触れる手の温度も、全部同じだ。 「水、2本で良い?」 「あ、うん」 急に逢坂に声をかけられて、柴田は焦ってそう返事をした。ミネラルウォーターが後何本残っているのか、柴田には分からない。逢坂がドリンクの冷蔵庫を開けて、そこからミネラルウォーターの500mlのペットボトルを2本取り出して籠に入れる。逢坂が冷蔵庫の扉を閉めて、冷気がおさまる。左に動いて、今度はお酒のコーナーの前で止まる。逢坂の指が何も言わずにグレープフルーツサワーを抜いた。 「違うの飲む?」 「ううん、それでいい」 「と思った」 にこっと振り返って笑う。そういう無邪気な笑顔は年相応でかわいい、柴田は誰にも言わずにひとりで思う。逢坂が角を曲がってデザートコーナーで止まる。 「今日何にするの?」 「んー、どうしよっかな。ベイクドチーズケーキうまかったよ、この間の」 「へー、俺ちょっと甘過ぎと思ったんだけど」 「今日は杏仁豆腐にしようかな」 それだけは柴田が選び、逢坂の持っている籠の中に入れた。逢坂はそのままカウンターを回ってレジの前に立つ。商品を籠からひとつひとつ出してバーコードを読み取って行く。その間に柴田は財布を取出し、千円札をカウンターの上に無造作に置く。 「あ、しず。煙草」 「はーい」 手を止めて逢坂がクールのボックスを手慣れた動作で棚から取り、そのバーコードを読み取る。ふと柴田は思い立ってきた道を戻ると、デザートコーナーの隣にあるジュースやコーヒーが並べられたそこからオレンジベースの野菜ジュースを取ってカウンターまで戻ってきた。 「これも」 「侑史くんちゃんと飲んでるんだね、えらい」 「うるさい」 眉を顰めて言うと、逢坂はふふっと声を出さずに笑った。そして柴田の出した千円をレジの中に入れる。お釣りを選び出すと逢坂が此方に手を差し出した。 「はい、お釣り」 「ありがとう・・・―――」 コインが手のひらに置かれる、その時逢坂の指先が柴田の手のひらに触れて、びりっと電気が走った。思わず柴田は手を引っ込める。お金が受け皿を失ってばらばらとカウンターの上に散らばった。 「いって・・・」 「え、どうしたの、侑史くん?」 「お前、今、静電気」 「え?静電気?」 カウンターの向こうで逢坂はぽかんとしている。可笑しい、静電気なら双方とも痺れるはずなのに、見る限り逢坂は平気そうだ、自分だけだったのか、運が悪いと思いながら、柴田はカウンターの上に散らばったお金を集めて財布の中に入れた。そして逢坂が買ったものを入れてくれたビニール袋を取る。 「じゃあ・・・―――」 柴田がその先を言う前に、カウンターの向こうから腕が伸びてきて柴田をぎゅっと抱きしめる。腹がカウンターの角に食い込んで痛い。 「・・・なに、お前、店の中で」 「侑史くん、今日、家行って良い?」 「・・・あー・・・うん、いいよ」 ぽんぽんと逢坂の腕を叩くと逢坂が腕の力を緩めて解放される。見上げた逢坂は、何故かそこで潤んだ目で柴田を見下ろしていた。 「何で泣いてんの、お前」 「・・・別に。侑史くん大好き」 「あー・・・はいはい、ありがとう」 「バイト、終わったらすぐ行くから」 「うん、待ってる」 じゃあ、と柴田が手を上げてカウンターから離れる。それを逢坂はそこに立ったままただ見つめていた。背丈はあるくせに薄っぺらい背中は、ややあって自動トビラの向こうに消える。センサーが働いて来店の時と同じぴろぴろと間抜けな音が店内に響いていた。 『ミネラルウォーター2本、グレープフルーツサワー、杏仁豆腐、クールのボックス、野菜ジュース(オレンジベース)』 それから、それから・・・―――。 fin.

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