32 / 36

隣の瀬戸口さん

自宅マンションに帰ると、時々隣の部屋の前に誰かが座っている。帰ってきたのが深夜だったので、はじめて見た時は流石にぎょっとした。カーキ色のモッズコートを着ている男、シルエットが大きいので一目で男と分かった、が隣の部屋の前にしゃがんでいる。はじめは隣の住人かと思ったが、近づいてみるとどうやらそうではないらしいということが分かる。俯いている頭は根本まで綺麗に染まった金色だった。顔は見えないが、それだけでまだ若そうな印象を受ける。このマンションにこんな若い男は住んでいない。時々朝出勤する時間が被り、隣人とは顔を合わせるが、彼とはかけ離れているし、もし自分の知らないどこかの住人ならこんなところにしゃがんでいないだろう。訝しく思ってじっと見ていると、金髪の男が視線に気付いたように顔を上げる。耳にはおもちゃみたいなヘッドホンがかかっており、髪は思ったより長かった。その奥から黒い目がこちらを見ている。目鼻立ちがはっきりしていて派手な印象はあるが、端正な顔をしていると思った。思ったより若そうだ、大学生だろうか。 「こんばんはー」 男はヘッドホンを片耳だけ外して、にこっと実に愛想よく笑って言った。黙ったまま瀬戸口も、それにほとんど反射的に頭を下げる。軽い調子の声だったが、挨拶はするのか、と思って少しだけ意表を突かれたような気がした。奇妙だとは思ったが、それをその男に尋ねるほどのことではなかったし、気にはなかったがその日、そのまま瀬戸口は部屋の中に入った。 それから帰りが遅くなった日に、時々男のことを見かけるようになった。隣人はどうやら帰りがいつも遅いらしく、彼はそれを部屋の前でしゃがんで律儀にも待っているらしかった。彼は大体いつもおもちゃみたいなヘッドホンをつけて音楽を聞きながら俯いて座っていたので、瀬戸口は彼が自分に気付けば軽く挨拶をしたし、彼が気付かなければそのまま言葉を交わさない日もあった。 (・・・今日も待ってる) 隣人は彼に鍵でも渡してやればいいのに、彼はいつも律儀に帰りがいつになるのか分からない主人を待つ犬みたいに従順だった。今日は彼が足音に気付いたらしくこちらを見たのと目が合ったので、いつものように会釈だけして部屋に入った。一瞬、嬉しそうな表情をしたので隣人と間違われたのだろう。期待を裏切って少しだけ申し訳ない気持ちになる。時計を見上げると10時を少し回っている。いつもより少し帰宅が遅くなってしまった。しかし隣人はまだ帰らないらしい。それから30分ほど経つと、隣の扉がガチャガチャ開く音がして、隣人が帰ってきた様子だった。瀬戸口はテレビを消して、パソコンを弄っていた手を止める。どんどんと何やら隣でぶつかるような音がして、少しの沈黙の後、男の喘ぎ声が聞こえる。 (はじまった・・・) 自分のマンションの壁がこんなにも薄いなんて知らなかった。偶然テレビも音楽も付けずにぼんやり本を読んでいる時、隣から喘ぎ声が聞こえてきた時は驚いた。男だというのは少し注意すれば分かったけれど、それが隣人の柴田のものだと分かるにはまた少し時間がかかった。そしてどうやら時々見かける金髪の若い男がやってくる日に限り、喘ぎ声が聞こえるというところまで、今では判明している。はじめの頃は他人のそんな声、聞くに耐えないと思ったが、慣れれば余り気にならなくなった。 (可哀想に。こんな時間に帰ってきて、今からヤリ倒されるなんて柴田さんも) コーヒーを飲みながら、瀬戸口は途切れ途切れに聞こえる声に耳を澄ませる。柴田がそんな性癖とは知らなかった。ここに引っ越してきてから1年ほど経つが、確かに彼女らしい姿をそう言えば一度も見たことはなかった。けれど分かってみれば何となく腑に落ちている自分もいて、不思議だった。聞こえるそれが女の子のそれなら少しは罪悪感でも抱くのかもしれないが、同性と分かっているのでそれが聞こえていることも聞いていることも、瀬戸口は何にも後ろめたいことがない。不思議だが人間の性なのか、はじまると音を消して聞いてしまう自分にももう呆れるのは止めた。ややあって柴田の切ない声が途切れる。 (あ、終わった) と、思ったらまたばたばたと何か騒がしくなり、ややあってそれがぴたりと止む。するとまた喘ぎ声が聞こえはじめ、はじまったのだと分かる。若い男は散々待たされたことをそれにぶつけるみたいに、いつもそうして激しく何度も柴田と交わっているようだった。 (・・・可哀想に) 瀬戸口はふっと溜め息を吐いて、しばらくそれを聞いていた。 翌日、瀬戸口がマンションを出ると同じ時間に丁度隣の扉も開いて、思わずびくりと背中が震えた。柴田の疲れたようなそれでいて憑き物がとれたような顔がそこから出てくる。昨日の切ない声が蘇って、瀬戸口は後ろめたいことなどもうないはずなのに思わず目を反らした。 「あ、瀬戸口さん」 「・・・どうも」 柴田はこちらに気付くと眠そうな目をして会釈をした。瀬戸口もそれに僅かに頭を下げる。柴田は特に美人というわけではなかったが、華奢な体つきに疲れたような表情がいつもアンニュイでいて、何となく男が夢中で柴田を貪っているのがストレートの瀬戸口にも分かるような気がする。だから余り長い間見ているのは文字通り目に毒、よくないと思っている。 (・・・今日もすげーフェロモン出てるなぁ) いつもはそんなことはないのだが、男が来た次の日は柴田の体から噎せ変えるような色気が出ている、ような気がする。それが瀬戸口の気のせいなのかどうか、確かめる術は今のところない。柴田の骨ばった痩せた手が凝っているらしい肩を撫でて、思わず首筋に視線を降ろしていた瀬戸口はまた慌てて目線を反らした。勿論本人を目の前にそんなことは言えない。 (俺、会社でこの人の隣で仕事したくないな) 黙ったまま瀬戸口はひとりで思う。こんなのが隣に座っていると、気になっておちおち仕事もしていられないだろう。柴田が後ろ手で扉を閉めようとすると、その扉がぐっと引かれて、あ、と瀬戸口が思った瞬間に柴田は後ろに転びそうになる。 「侑史くん!」 金髪の声だけがする。 「やめろ!触るな!」 「ちゅーまだだもん!黙って出ていこうとしたでしょ、今」 「うるさ・・・―――」 ばたんと瀬戸口の目の前で勢いよく扉が閉まって、声が途切れる。扉の向こうで何やら話している気配はするが、内容までは分からない。瀬戸口はふうと溜め息を吐いて、扉に背を向けた。どうやらはやくここから立ち去ったほうが良さそうだ。 (朝からごちそうさま)

ともだちにシェアしよう!