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違う世界があるという
人間、想定外過ぎる事が起こると驚く程冷静になるんだな、とピタッと涙の止まった今の自分を見て思う。
俺は玄関で抱き締めたはずのルナが消えて、代わりに俺に抱き着いている美しい少年をリビングに連れて行き、とりあえず服を着せた。
アブない子なら警察に引き渡さないと。それには全裸はヤバいだろう、俺が。
シャツを着せて、部屋着にしている肌触りの良い短パンを履かせる。彼は俺にされるがままで、素直に服を着た……泣きながら。
「えーっと、何で泣いてるのかな? どっか痛い?」
彼は俺の言葉に、胸の辺りのシャツをぎゅうっと掴む。
「ココ、痛い……深海 泣いてるから、俺も涙出る……」
ぐずっと鼻をすすって俯いてしまった彼がはっきりと俺の名を呼んだ事に戸惑った。
俺はこの少年を知らないのに。
「で、キミは誰かな?」
「ルナ」
「ルナは俺の飼ってる猫だ。ルナをどこへやったの?」
「だから俺がルナ……」
「怒るよ!?」
「ひっ……!」
つい出た大声にびくりと身を竦ませた少年が涙でいっぱいの目で俺を見た。
悲しそうに少し垂れたその金眼には確かに見覚えがあった。
まさかな、とは思う。思うけど。深呼吸を一つ。
「ルナ?」
呼びかけると、心臓がチクリと痛んだ。
「うん」
「本当に? 何で人間? いや、何で猫……?」
「えっと……」
人間ではない、と言われて俺は何故かあっさり、そうだろうなと思った。
猫でもない、と言われても納得した。猫にしては賢過ぎたしヒトっぽかった。
「猫の方が良い?」
「へ?」
「猫だと深海笑うから。このカタチになったら嫌そう……」
大き過ぎたシャツの中で居心地悪そうに身じろいだルナはまじまじと自分の掌を見つめて呟いた。
「嫌なんじゃなくて、びっくりしてる」
「そか。本当はもうちょっと猫のままでいようかと思ったんだけど、深海が裏切ったりしないよな? って言ったから、猫のままだと嘘になっちゃうから、俺、深海の事は絶対裏切りたくなくてっそんなのやだっ困るっ」
「ちょ、落ち着いて」
はっと俺を見た目にはもう涙はなかった。
「うん。あの。俺の世界は、この世界とは違ってて、理想郷とか桃源郷とか無何有郷 とか楽園とか? 色々な名前で呼ばれてて存在しない物って事になってる……よね? 知ってる?」
確かめるように俺を見たので頷いて先を促した。
「でもあるんだ。俺、そこ……怒られて追い出された。このカタチでこの世界にいるのはかなり負担なんだ。だからちっこい猫になってた。で、助けてって一生懸命呼んだけど、誰も助けてくれなかった。酒臭い人達に汚いって何かベタベタする水かけられたり、髪の毛逆立った人達に追いかけられたり、ゴミ投げられた。やっぱこの世界は嫌だなって思ってたら深海が俺の声聞いてくれた。ここまでは大丈夫?」
うん、と頷きかけて、止まる。
「ん? 俺が声を聞いた?」
「うん。元気でって初めて優しい事言われて、もう会えないなんて悲しくて苦しくて。いやって言ったら、深海が振り返って。んで、来て良いって言ってくれた!」
そう言うとルナは嬉しそうに満面の笑みを浮かべた。
すごく綺麗な笑顔だった。
「あ。話ズレた……えっと、俺の世界では裏切りとかはダメなんだ。負の感情が生まれるから。けど嘘は良いんだ。嘘も方便って言うでしょ? でもね、嘘ついたら、つき通さないといけないの。嘘だったってバレた時点でそれは裏切りに変わるから……だから……俺、深海に嘘ついてた、から。裏切るなって言われたら、早くホントの事言って謝らなきゃって思って……ごめんなさい。嘘ついてごめんなさい」
指の関節が色を失くす程に握り締めた拳が膝の上で微かに震えている。
「ごめん……なさ……」
また泣き出してしまった。
俺の前に猫の姿で現れて、実は猫じゃなくて、人間でもなくて……って事がルナにとっては大罪のようだ。
はらはらと涙を流すルナを見ていると不思議と俺の目にも涙が浮かんだ。胸がひどく痛い。直接ルナの罪悪感が流れ込んでくる気がする。
「もう良いよ。話すの怖かったろ? もう良いよ」
どうやったら泣き止んでくれるんだろう。
そっと手を伸ばして綺麗な髪に指を通した。さらり、と指の間を抜けていくそれは絹糸のようだと思った。
「深海も、泣いてる?」
「ルナが泣いたから、もらい泣きってヤツかな?」
ごまかすように目を擦って、ルナの頭を軽くぽんぽんすると
「怒ってない?」
と不安そうに見つめられて苦笑した。
「うん。怒るより、びっくりした。ちゃんと話してくれたから……もう良いよ。裏切られたなんて思ってないし」
そう言うとルナは心底安心したというように眉を下げて笑った。
「信じてくれる?」
「そりゃ……まぁ。猫のルナに言った事を言われたら……信じるしかないかなぁ」
それにいくら姿が変わっても、美しい金眼は変わらない。
「だからもう泣くな」
もう一度頭をぽんぽんして笑いかけた。
「深海、やっぱり優しい」
ルナが細い指を伸ばして俺の頬に触れた瞬間、派手な音を立ててルナの腹が鳴った。
「あわっあわわ!」
真っ赤になって腹を抑えたルナが可愛くて、つい吹き出す。
「なんか食べよう。俺も腹減ったよ。食べながら話そうぜ?」
「うん! 俺アレが良い! 柔らかいの!」
柔らかいの? 柔らかいのって……何だろう?
「おやつじゃないヤツ!」
……それってキャットフードじゃないか。
「いや、俺と同じ物は食べられないの?」
猫の姿ならいざ知らず、同じ人間の姿なのにキャットフードを食べさせるっていうのはかなり気がひける。
「食べられなくはないけど……アレ美味しいよ?」
美味しいよ、と真っ直ぐな目で言われても、やはり……。
でもアレは……と渋る俺を見つめたルナは
「じゃあ、猫になる。そしたら柔らかいの食べて良い?」
と首を傾げた。
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