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第3話

菱との出会いから二週間が経った。  全15回の講義も今週で三度目。それぞれ特色も掴めてきて、今後は出席さえ落とさなければテストもレポートも問題なく突破出来そうだ。しかも単位取得予定の講義のほぼ半分は菱と被っている。これは、絶対に落とすまじ。 「そのため、この色と反対色になるのは――」  火曜日2限目、色彩学入門。文学部と法学部合同のこの講義には、親友の梨音も参加している。もちろん隣には菱もいる。  本日のレジュメに目を落としながら、意識は菱へ向いていた。この丸二週間、菱の顔を毎日毎日見続けているが、一向に飽きる気配がない。イケメンは何度見てもイケメンである。好物だって二週間食べ続けたらさすがに喉も通らなくなるというのに。 (誰だよ、イケメンは3日で飽きるとか言ったやつ)  3日で飽きるどころか、まだまだ見足りない。出来れば講義の間も眺めていたい。毎日好きな顔に出会えるということが、こんなにも学生生活の活力になるとは。ニュートンもびっくりの大発見である。  毎日それはもう幸せだ。幸せなのだが。 「はあ……」  小さくため息をつく。こんなに毎日大好きな顔を拝めているのに、こればかりは精神論では片付けられない。 「どうしたの」  少し距離を縮めて、小さな声で菱が話しかけてくる。とん、と肩がぶつかって、それだけでもちょっとだけ心臓が跳ねた。 「いや」  内心高鳴ったことをごまかすように小さく咳払いをして、短くいらえを返す。暗に会話を流そうとしたのだが、しばらく肩が触れたままなのでふと菱の顔を見ると、至近距離でじっと見つめられている。  これだ。これがずるい。  どうやら菱は実家に双子の妹がいるらしく、かなりの長男気質らしい。 だからなのか、こうして梓が話を流そうとしたり、言いたいことがあるのに言い出せなかったりすると、無言になってじっと瞳をのぞき込んでくることがある。どうした、何があった、ひとまず話してみて、と穏やかに言うように。  抜群に好みの顔がこっちを見ているだけでも心臓の負荷はかなりのものなのに、更に純粋な心配の眼差しを向けられると、胸がきゅんとかぎゅんとかばこんとか音を立てて破裂しそうになる。しかも視線を合わせながら少し首を傾げられたらもう。白旗を上げて無条件で全面降伏というものだろう。 「いや、大したことでは、ないん、だけど」  照れからか、変なところで言葉が切れる。視線を外して、顔を背けてもう一度咳払いをする。うん、くそう。可愛いぞ。決して口からは出さないけれども。 「あー……、実は、バイトがなかなか決まらなくて」 「バイト?」  こくこく、と首を縦に振る。  地元はそれ程遠くないので実家から毎日通うことも不可能ではないのだが、大学入学を機にこれも人生経験だからと、親を説得して一人暮らしを始めた。  もちろん述べた通り経験を積むためのものでもあるのだが、一番の理由はこの性癖がいつか親にバレてしまうのではないかという恐怖観念からだった。  一人っ子である梓は、程よく大切に育てられてきた自覚があった。母親は専業主婦だったので、ものすごく裕福だった記憶はないが一文無しの貧乏だった記憶もない。入学式と卒業式には必ず両親が来たし、進学する大学も成績表を挟んでしっかり両親と話し合って決めた。溺愛されているとは思わないが、毎週母親からは身体を心配するメッセージが届くほど、親との距離感は近い。  だからこそ、両親には自分がゲイであることを伝えなかった。拒否されるとは思わないし、勘当されて帰る家を失くすとも思わない。だけど、自然に自分を愛してくれている両親に敢えて気を遣わせるような事実を述べるのが、嫌だった。  一緒に住んでいなければ、元カレや今カレと鉢合わせることもない。恋人やゲイ友と過ごす時間のために、いらない嘘をつく必要もない。どこかで勘づかれるのではないか、と怯えなくていい。一人暮らしの方が精神的不安が少ないだろうと目論んでの計画だった――のだが。  一人暮らしをするのに、これほどお金が掛かるとは予想外だった。  引越しをして一人の部屋を持つと、当然家の中のものをひとつひとつ自分の手で揃えていくことになる。冷蔵庫も洗濯機もない。ベッドやテーブルもない。ちょっとしたことで手や床を拭こうにもティッシュペーパーがない。  そうしてどんどん、どんどん、あれもこれもと揃える間に、ついには高校時代に地元のカフェでバイトして貯めたお金も、気付けば五桁台に突入しそうになっている。  家賃は部屋を借りる時に一ヶ月前払いで支払っている。次の引き落としは来月の末日。すぐにバイトが見つかれば話は別だが、バイトが見つからなければ残りの貯金額で生活費と家賃を支払わなくてはならなくなる。これは正直厳しい。  だが、ここ最近受けた面接は何故かことごとく落ち続けている。別の学生を採用することにしたとか、辞める予定だった人が残ってくれることになったとか、全くもって自分の運が仕事をしていないかのような、そんな理由で。  そんなことをつらつらと―もちろんゲイの部分は省きつつ―菱に話すと、ふと視線を落とした菱が何か考え込むような表情をした。 「梓、高校の時カフェでバイトしてたって言った?」 「え……うん、そうだけど」 「ホールスタッフ?」  こくり、と頷く。菱が決心したように視線を上げた。 「俺、先週末、バイトの面接受けに行ったんだ。ランチとディナーやってる、イタリアンのお店。実はその時、他にも時間ある友達いないか、って店長から言われて」 「それって……」 「うん。勧誘みたいになっちゃうから、本当は話さないでおこうと思ってたんだけどね。梓、良かったら俺のバイト先で一緒に働かない?」  経験者だと俺も心強いし、と優しくほほ笑まれて、断れる人類がこの世のどこにいるだろう。少なくとも梓には天地がひっくりかえっても到底無理だ。  少々食い気味にお願いします、と返すと、その早さに一瞬目を見張った菱が、ぐっと眦を下げて笑みを深くした。安堵したような、喜びが滲み出るような。そんな風に笑われたら、こっちまでつられて口元が緩くなってしまう。  後でバイト先に連絡してみる、と言って、触れていた肩が離れていく。温もりがなくなったので少し寂しいが、それよりもバイトが決まることと好きな顔を見ていられる時間が増えることへの嬉しさが勝る。  不自然ににやけてしまわないように必死で唇をかみしめていると、机の上に出していたスマートフォンの画面が突然明るくなった。メッセージが届いたようだ。差出人は、梨音。 (授業中になんだ?)  そして次の瞬間、菱の隣で開いたことを、梓はとてつもなく後悔した。 『距離ちっか。もうくっついたの?』 ご丁寧に目をキラキラ輝かせたパンダのスタンプまで送ってきている。  時間にしてコンマ5秒程。がたん、と程よく大きな音を立てて、梓はスマートフォンの画面を机に押し付けた。

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