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第4話
「じゃあ、今日からよろしくな」
「はいっよろしくお願いします」
緊張した面持ちで勢いよく頭を下げた梓に、リストランテのオーナー兼店長である板倉望 は、そのダンディな顎髭を楽しそうに揺らしながらこれまた豪快に笑った。
木曜日、午後4時50分。本日は待ちに待った、梓の初出勤日である。
「まあ今日はシフトも安定してるし、友達もいるから大丈夫だろ。初日だしひとまず元気で丁寧にしてくれりゃ、他に多くは望まんから安心しろ」
そう言って軽く肩を叩いたつもりなのだろうが、その肉厚で大きな手のひらが当たるとずしんと重みがくる。笑いながら厨房に消えていくがっしりとした背中を見て、まるで熊か、と心の中でツッコミを入れた。
リストランテ・ペルテ。大学から自転車でおよそ20分程の場所に位置した、イタリア料理のお店である。最寄り駅からは歩いて10分弱。近くはないが喧騒から少し外れた住宅街の中にあるので、常連客はもちろんのこと最近はSNSでもそこそこ評価を上げている。小さめの4人掛けテーブルが14脚に、カウンターが5席ほど。狭すぎず、広すぎず。居心地の良い空間も相まって、休日のゴールデンタイムは待ちが出る時間帯もある。
毎週水曜日が休み。営業時間はランチタイムの11時30分~16時。ディナータイムの17時~23時。それぞれ1時間前がラストオーダーである。
梓と菱は大学が終わってからの平日ディナーと土日祝のランチとディナー、併せて週4日程度のシフトで入る契約になっている。シフトは2週間ごとに提出。テスト前や帰省などでの休み可。簡単なまかないつき。その他誕生日など、イベント事での店内利用は社員割引利用可。必ず二人一緒のシフトとはいかないが、出来るだけ被るように配慮してくれるらしい。
今のご時世、こんなに融通の利くアルバイトはあまりお目にかかれない。
「梓、大丈夫?緊張してる?」
身支度を整えた菱がホールに出てくる。白い襟付きのシャツに黒のタイトジーンズ。腰に巻き付けたサロンエプロンも黒。そこまで堅苦しい店ではないので、足元はこれまた黒のコックシューズだ。
どこからどう見ても長身かつ足長の菱にぴったりの制服である。本当に自分と同じスタイリングなのだろうか。なんと言うか、シュッとしている。少し長めの髪を後ろで邪魔にならないようにお団子にしているのも、うなじが覗いてこれがまた最高にたまらない。
「梓?」
「う、えっ?あ、大丈夫、大丈夫」
まずい、見惚れていて反応が遅れた。そして変な声が出てしまった。このままでは舞い上がり過ぎて仕事でも阻喪しかねない。気を引き締めていかないと。
ひとつ大きめの咳払いをして、菱を見上げる。緊張で若干顔が強張り気味な梓を察してか、目が合った菱は安心させるような穏やかな笑顔でにこっとほほ笑んだ。つられて梓の唇もふにゃっと歪む。さっき気を引き締めると誓ったのに、もう破らざるを得ないではないか。
「おはよー」
「あ、坂本さん」
梓が一人心の内で葛藤していると、菱の後ろから溌溂とした女性の声が聞こえた。
坂本さん、と呼ばれた明るいショートカットの女性は菱の陰に隠れた梓を発見するなり、満面の笑みで近づいてくる。
「あー!今日から入る新しい子かな?」
「は、はいっ」
瞬間的にまた背筋が強張る。こういう時、あがり症で緊張しいの自分を悔やむ。よろしくお願いします、の一言と共にガコン、ガコンと音がしそうなくらい角ばったお辞儀をすると、頭上でぶふっと吹き出すような音がした。顔を上げると、坂本が口に手を当てて笑いを噛み殺しているのが分かった。
「ご、ごめんごめん。緊張してんの?かわいいね。田崎くんの友達だって?なら、同じ大学の子か」
「そ、そうです」
ひとしきりくつくつと笑い終えた坂本がそう言って目尻を拭う。押し寄せる羞恥心に俯きながら頷くと、両肩をぽんぽんと優しく叩かれた。
「大丈夫だよ、怖いことないよ。私、坂本千鶴 って言います。一応ホールスタッフの中では一番長いので、何か不安なことがあったらいつでも頼ってね」
にっこり笑いかけてくれた坂本も、人を和ませる雰囲気がある。隣で菱がこくこく、と何度も頷くので、それにも安心させられた。
「田崎くんは先に何回かシフト入ってるから、聞きやすいなら田崎くんでもいいし。お互い分からないことはそのままにしないように、よろしくどうぞ。じゃあまずこっち来て」
そう言って連れられるがまま坂本の背中を追う。隣で菱が小さく拳を握って「頑張ろうね」と呟いた。
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