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第5話

初出勤を終えた週末。最初から土日両方の勤務では負担も大きいからと、梓は日曜日に休みを貰った。 ここのところ慣れない家事が溜まってしまっていたので、なかなか週末に出掛けることもなかったのだが、高校時代からの友人たちにたまには食事でもと誘われたのである。先立つものがあるわけでもないが、ひとまずバイトが決まったので来月の家賃、生活費、諸々の出費には一旦目を瞑ってみる。友人が言うようにたまには気分転換も必要だろう。 丸の内線池袋駅を西口に出て、西口公園に向かう。この辺りも再開発が進んで、以前より健全な街になりつつある。もちろん今でも路上ダンサーや不良のたまり場であることには変わりないが、それでも数はぐんと減って、治安も大分良くなっている。昔ながらのラジカセを片手に自撮り棒でぎゃあぎゃあと騒ぐユーチューバーらしき若者を横目に、梓は更に歩を進めた。 東京芸術劇場を越して細い路地に入って少し進むと、手書き風の文字で【Happiness】と書かれた小さな木目調の看板が目に入る。迷うことなく地下に続く階段を下りて扉を開けると、控えめに流れるジャズが梓を迎え入れた。 遅れて、いらっしゃいませと女性マスターの穏やかな声が続く。返事代わりにぺこりと頭を下げつつバーカウンター横に目をやると、お目当ての二人はすぐに見つかった。  バーカウンターより少し後方の角。背の高い小さな丸テーブル。スツールに腰かけた二人は梓の来訪に気づき、おいでおいでと手を振っていた。引き寄せられるように小走りで近づいていく。 「ごめん、待った?」 「いや、俺たちも今来たところ」  落ち着いた声で返すのは、早風(はやかぜ)フリア。高校の同級生で、大学も同じ。芸術学部在籍なので大学構内ですれ違うことはほぼ無い。顔を見るのも久しぶりだ。 「久しぶりだな、フリア。元気してた?」 「元気だったよ。梓も元気そうで何より」  にっこりと笑うとぶわっとバラが咲くようなオーラがある。何を隠そうこの男はフランスと日本のハーフであり、均整の取れた顔立ちに明瞭な耳障りの良い声、長身ですらっとしているように見えながら、脱いだらものすごい筋肉という四重苦ならぬ四重得を備えた超ハイスペックワンダーマンなのである。天が二物を与えるとはよく言うが、ここまで与えすぎた物件は他にお目にかかったことがない。生成時の目分量が過ぎる。 「とりあえず座ったら」  フリアの隣に座っているのは梨音だ。こちらはこちらでくりっとした瞳に小柄で華奢な身体、小悪魔そうにうねるぷっくりとした下唇に微笑みを湛えている。神様、こっちもやらかしてるぞ。 「何、どうしたの?」  座りもせずフリアと梨音の顔を見比べては、どんどん菩薩顔に近づいていく梓を訝しんで、梨音が心配そうに声を掛けてくれる。どうにか精神を現に呼び戻して、梓は高めのスツールに腰を掛けた。 「二人は何飲んでんの?」 「僕はミモザ」 「俺はスコッチをロックで」  成年前というのはこの際置いておく。高校生の頃だって隠れて数回クラブに足を運んだことがあるし、ハロウィンやらクリスマスなんかのイベントでは知り合いのバーでそれなりに盛り上がって夜を明かしたこともある。  梨音はその見た目通り甘い酒を好む。フリアは基本ウィスキーや焼酎をロックで飲んでいるイメージだが、本人曰く嫌いな酒がないらしい。二人とも酔っ払って前後不覚になったところはおろか、紅潮してテンションが上がっているところすら見たことがない。つまりザルを越してほぼワクである。  一方の梓はそれなりに酒での後悔も反省も身に覚えがあるので、無茶な飲み方は控えている。 なんだか、また席に着く前の悟りの境地を思い出してしまいそうになったので、素早く手を挙げて店員を呼び寄せた。 「モスコミュールひとつ」  オーダーを伝え、梨音とフリアに向き直る。真正面から見るとやけに眩しい。今日はもう日没を終えたはずじゃなかったか。 「そういえば梓、バイト先決まったんだって?」  スコッチのグラスを玄人のようにぐるり、と回してフリアが問いかける。 「ああ、そう。梨音に聞いた?イタリアンのお店に決まったんだ」 「飲食店てことは、ホールスタッフか。高校の時もやってたもんね」  おめでとう、とお祝いの言葉が上がったところでモスコミュールが到着したので、そのまま三人でグラスを小さくぶつけ合う。 「大学の近く?」 「そう」  そのまま梓はバイト先であるリストランテ・パルテについて二人に詳細な説明を施した。  大学の近くで大きすぎず、小さすぎず、居心地の良い空間になっていること。生パスタを使用していて、それが近所の奥様方にかなり評判となっているためランチは割と混雑していること。夜はコースも用意していて、飲み放題も付けられるので誰かの誕生日パーティーに良さそうだと考えていること。以下略。  二人の雰囲気は独特だ。いつも温和な笑顔を湛えているからか、こちらがいくら話しても話しても話し尽きることがない。まるで学校であったことを母親に話す無邪気な小学生のように、次から次、あれもこれもと伝えたいことが止まらない。大きなリアクションがいくつもあるわけではないのにいつも以上に饒舌になってしまって、気付けばテーブルに並んでいたつまみはほぼ空になっていた。  そしてひと段落着いたところで相手に不快感を全く感じさせないままに、話を切り替えるのだ。 「何か食べ物追加する?梓お腹空いたでしょう」  すらっと長く綺麗な指でフリアがメニューを広げる。メニューのラインナップを見た瞬間、梓の腹は答えるようにくう、と音を立てた。 「あはは、素直だなあ」  梨音がころころと笑う。羞恥に顔を赤くしながら、頼みたいメニューを選んでいるとフリアが店員に声を掛けた。いつの間にかカウンターや離れた席にも客が入っている。  割とがっつりめなラインナップを店員に伝え、一息ついたところで梨音が口を開く。 「で、梓。大事な話がまだでしょう」 「え?」  お喋りな口と喉を潤す為に含んだモスコミュールをごくりと飲み込んで聞き返す。本当に何気なく、まるで明日は晴れだよねと他愛もない話題を振るかのように聞くので、本当に何のことだか分からなかった。  口をつぐんだ梨音が薄く笑って目を細める。嫌な予感。 「タサキリョウくん、だったっけ?」 「ちょっ……!」 「タサキリョウくん?誰だろうな、聞いたことない」  梨音を制止しようとした手がモスコミュールのグラスに当たる。危ない、溢すところだった。阻喪は免れたものの、即座に入り込んできたフリアの好奇心の標的を逸らすことは出来ない。通常でも色っぽく潤んだフリアの瞳が、更にキラキラと輝いている。  したり顔の梨音と全力で説明を求めているフリアを視線で4往復した後、梓は小さくごにょごにょと口を開く。 「実は、友達と同じバイト先に勤めさせていただいておりまして」 「うんうん」  いっそう相槌の大きくなったフリアの目の前、梓は青くなったり赤くなったりしながら事の経緯を話した。始終、フリアは輝いた瞳を途絶えさせることなく保持し続けていて、前のめりになってくれることが恥ずかしいやら嬉しいやら。  一通り説明を終えるとフリアは一転、瞳をゆらゆらと揺らして、感激したように満面の笑みを浮かべ一言、そうかと呟いた。  そんな優しすぎる眼差しで見つめないでほしい。これ以上顔は赤くなれない。 「そうか、よかった。梓」  フリアの長い左腕が伸びて梓の右肩を優しく撫でる。 「好きになったんだね」  その一言があまりにも小さく優しく響くから、アルコールの力も相まって目頭がジリ、と疼く程だった。まるで、切望していたことが不意に叶ってしまったような、そんな意外性と喜びを滲ませた声で。一瞬思考が過去に捉われそうになるが、かぶりを振って霧散させる。 「顔ね、顔!顔がとっても好みって話ね!」  フリアの目を見ないまま、手でパタパタと顔を仰ぐようにしてお茶を濁した。濁したかった。 「梓の話を聞いていれば分かるよ、とっても優しくてスマートで。菱くんは梓の愛を取り戻してくれたんでしょう」  心底嬉しそうに、にっこりと笑いながら。  梓は空気を吸おうとして上手くいかず、はぐ、と変な声が出た。今度こそ唇を噛みしめ真っ赤になって俯く。  梨音がライフルなら、フリアはバズーカだ。二人とも的確に人の弱いところを狙い撃ちしてくる。フリアは梨音よりもっとたちが悪い。相手を褒める言葉に遠慮がなさ過ぎて、破壊力が段違いだ。  ただ手法は違えど、どちらもいたずらに弄ぶことはしないのだから、そんなところの優しさはやはり嫌いになれないけれど。

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