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第7話
バイトを始めて3週間と少し。今日は初めての給料日だ。
個人店だからということもあるだろうが、リストランテ・ペルテの給与支給日は当月払いなのである。15日締め、当月25日払い。つまり、4月下旬に勤務を始めた梓の給料は半月分ほどが本日振り込まれている。
(ギリギリ貯金が0にならなくて済んだし、本当良かった……)
半月分ほどの給与があれば、現在の口座の残高をまるまる次の給料日までの生活費に出来る。
本日最後の講義が終了するまであと10分弱。菱とは午前中のコマが一緒だったが、今日はこの後バイトもないし、顔を見ることは叶わないだろう。
(まあ今日は午前中ディスカッションあっていつもよりじっくり顔見れたし十分、十分)
今考えると、講義に料が遅刻してこなければ、梓の隣の席を選んでいなければ、毎日好きな顔を好きなだけ拝むということ自体あり得なかったのだ。偶然の神様がいるのなら、感謝してもしきれない。この先一生ピクルス入りのハンバーガーしか食べられなくてもいいくらい、感謝したい。
(ハンバーガーとか思ってたらお腹空いちゃったな)
夜ご飯は何にしよう。そう考えると同時、梓の頭にはもう一つのアイデアが過った。
(菱、何してるかな)
菱とのシフトは全て被っているわけではない。土日以外はむしろ被ることが少ないくらいである。だが確か、今日のシフトはどちらも休みだった気がする。
家賃や生活費が厳しいので、今までは菱を外食に誘うことが出来なかった。もちろんそれは菱も周知の事実だったから、菱からお誘いを受けたこともない。しかし、今日は給料日。ペイデイ。金銭の問題もなくなった今、これは誘うしかないのではないか。
(でも前々から約束してたわけでもないしな)
菱にも菱の予定があるかもしれない。むしろ給料日だからこそ、やりたいことややらなければならないことのオンパレードだという説もある。双子の妹さんや両親に贈り物をするのかもしれない。欲しかった家電や家具、ファッション、その他諸々を買いに行くかもしれない。バイトがないのだから家でゆっくり休みたいかもしれない。
考えだしたらきりがない。こんな性格が嫌になる。
ぐるぐると考え込んでいると、講義終了の鐘が鳴った。皆一様に帰り支度を始める。
結局どうにも踏ん切りがつかないまま、梓も同様に帰り支度を進める。菱に連絡を取るなら今だ。頭では理解しているのに、帰り支度を済ませた梓の右手はスマートフォンを握りしめたまま、メッセージを打とうとはしなかった。
(今日はスーパーでお惣菜でも買って帰ろ)
菱との外食はまた日を改めて、前々からちゃんとアポを取って、少しでも迷惑にならない状況で結構すれば良い。
――石橋叩きすぎだよ。
高校時代、恋愛に悩む梓に梨音が言った言葉を思い出す。
石橋を叩いて、叩いて、叩いた後何かにつけて渡らない。そう言われたことを思い出す。
(知ってるよ)
自分のことだからよく分かる。臆病で被害妄想主義。でも傷つくよりずっといい。
教室を出て階段を下る。学部棟の外に出ると学生で溢れかえっていた。この後の講義は教職や専門資格取得者の講義がほとんどなので、該当しない学生は全員帰路につくはずだ。
(別に急いでないしカフェでお茶してこう)
人の波が過ぎ去るのを待とうと、カフェの方向へ歩き出したその時。
右手で握りしめていたスマートフォンが振動して、着信を知らせた。
その振動に一度心臓を掴まれたようにぎくりとして、梓は固まる。後ろからどん、とぶつかられて、よろけながら沿道の花壇の方へ逃げた。
画面を見るとそこには、今まで誘うか誘うまいか、思案していた想い人の名前が表示されていた。そして舞い上がった刹那、梓の中で冷ややかに声がするようだった。
(別にご飯の誘いとは限らないだろ。忘れ物とかバイトのシフトの調整かもしれない)
期待するな、と。傷つくのはお前だ、と。
ごくりと生唾を飲み込んで、梓はゆっくり通話ボタンを押す。
「も、もしもし」
ちょっと噛んだ。でも今はそんなことどうでもいい。どぎまぎと複雑な鼓動を刻む心臓が、口から飛び出さないようにするので精一杯だ。
『梓、お疲れ様―。5限までだったよね、今帰り?』
「そ、そう。今から帰るとこ」
意味もなく左、右、と体を揺らす。スニーカーのつま先が花壇のレンガを少し蹴った。
『俺も帰るとこ。あ、もしかしてもう自転車乗っちゃってた?』
「いや!乗ってない!全然、まだ大学の中だし!」
そんなに強く否定するところでもなかった。口に出してから後悔する。
落ち着け。期待をするな。いつも通り、いつも通りだ。
『そっか、じゃあちょうど良かったかも』
はは、と菱が少し上ずったような笑い声をあげる。
もしかしなくても、これは。
『梓、今日この後予定ある?』
心臓が一度ずきん、と痛むかのように大きく跳ねた。心拍数がまた上がってきた。そろそろ血圧がまずいかもしれない。
「な、い」
懐部分の服をぎゅっと握る。胸をどん、どんと打ってどうにか鼓動だけでも押さえたい所だが、それより早く第二派がきた。
『本当?じゃあ、この後ご飯でも行かない?』
梓があんなにあんなに、あんなに悩んでそれでも口にしなかった言葉を、菱はまるで明日の遠足は晴れるかな、と聞くかのように、何の違和感もなく口にした。それだけで梓は一気に耳まで赤くなる。
「……いきたい、です」
喉の水分や油分が一つ残らず失われてしまったかと思った。掠れた声を咳払い一つで払って勇気を振り絞って言ったのに、存外静かに小さく響く。
耳に当てた箱から、ふふ、と菱の笑う声が聞こえた。
『急に敬語だね。今どこにいる?』
梓は辺りをさっと見回して、たった今出てきた学部棟の名前を伝える。
『了解。5分くらいで行くから、ちょっとだけそこで待っておいて』
よろしく、と。
耳元で柔らかい声が囁いて、電話が静かに切れた。
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