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第12話

「あ、雨だ」  学部棟の窓に雨が作った水の筋がひとつ、ふたつと増えていく。 「もうそろそろ梅雨だね」  ゆっくりと、そして時折早く流れていくそのうちのひとつを、菱の指がつつ、となぞる。長い指が水滴を追うその仕草になぜだか一人恥ずかしいような、いたたまれないような気持になって、梓は目を逸らす。最近、こういうことも増えた気がする。 「梓、傘持ってきた?」 「ん、いや……で、でもコンビニ寄って傘買うから平気」  窓の外を見ていた菱が前触れもなくくるりと振り返って聞くので、思わずどもってしまう。やましい心を隠すために、梓は少し強めの咳払いをして気持ちを立て直した。 「あ、じゃあコンビニまで相合傘して帰ろうか」  前言撤回。立て直しは見事に失敗。咳払いも失敗して、咳き込む羽目になった。 「だ、大丈夫?」 「だ……っじょう、ぶ」  どうにか呼吸を整える。まだ心臓はばくばく音を立てているが、体裁は繕えただろうか。  深呼吸を一つ置いて顔をあげると、菱の後ろに見覚えのある顔が見えた。 「梨音?」 「お疲れ、梓。どうしたの、顔真っ赤だけど」  ひらひらと手を振って近づいてきた梨音の顔が意地悪そうににやついている。どうやらこれはからかわれているらしい。 「う、うるさい、なんでもない! ていうか、どうしたはおれが聞きたい」  今受けてきた講義は学部別なので、梨音と被ってはいないはずだ。それがどうして、わざわざ自分の学部でもない、ましてや講義を取っている訳でもないこの教室まで足を運んできたのか。 「ちょっとお伺い立てたいことがあってね」  含んだように言ってにこ、と笑う。梨音は自然に笑うより作り笑いの方が綺麗に見える。可愛い顔立ちに綺麗な笑顔を見せられると、些末なことは気にならなくなるくらい。  そして大抵こういう、いっそ不自然すぎるほど作られた笑顔の後には、いつも爆弾のような言葉が待っているのだ。 「最近久木(ひさき)と連絡とった?」  笑顔を緩めて梨音が小さく尋ねる。その一言で、体温がざっと1度か2度下がったかのようだった。背筋が凍るとはこのことだ。  どうして、今。  その名前がその口から。  聞きたくて、でも怖くて聞けずに梨音の薄い微笑みにひきつけられるように固まっていると、肩に温かい何かがとん、と触れた。 「梓? なに、どうしたの?」  くん、と肩が下がるような感覚がして、止まっていた呼吸が再開する。肩に置かれた菱の手のひらがもつ重力が、物理的に息をさせてくれた。 「い、や……なんでも」 「なんでもなくないよ、梓」  梨音がいつの間にか笑顔を引っ込めて、真摯な瞳で覗き込んでいた。一瞬どきりと心臓が竦むようだったけど、この質問には本当のことしか答えられない。 「……とって、ない」 「本当に?」  間髪入れずに梨音が返す。こちらの瞳をえぐってしまうような強い視線だった。瞳が、嘘はついていないか、と問いかけている。  ゆっくりひとつ、瞬きをして答える。 「本当に」  言って瞳を見つめ返すと、梨音はふっと緊張感がほぐれてほっとしたように小さく微笑んだ。  そしてころっと180度変わったかのように、いつもの笑顔を張り付けた。 「よし。じゃあ飲みに行こう」 「は?」  あまりにも軽すぎる発言に、拍子抜けした声が出る。  ちょっと待て、今の今まで流れていた緊張感はいったいどこへ消えたのか。 「今日二人ともバイト休み? そっかー、じゃあ予定はないってことだよね」 「ちょ、ちょっと、ちょっと待って」 「自転車……は、どっちにしろ雨だし駐輪場に置いていくといいよ。いつもの池袋の店でいいよね」 「ちょっと待って!」  まだ一つ目の質問にも答えていない。  半ば叫ぶように梨音の言葉を遮ると、けろっとした顔で止まってみせる。まるで、完璧すぎる計画にあまりにも論外な質問を投げかけられたから驚いているとでも言いたげに。 「ま、まだ行くって言ってない!」 「そう。でも行くでしょ?」  明日も学校でしょ、と同じテンションで梨音が問い返す。そんなさも当然という顔で聞かれると、面食らってしまう。 「ね、田崎くん」 「えっ」  今日一番心臓が跳ねた。焦って目を剥く。  口パクで何を言っているんだと抗議すると、梨音がちらりと視線を動かして、小さくウインクした。いやいや待て待て、ウインクで誤魔化すな。 「なんで俺の名前」 「梓から色々話は聞いてるよ。大学でもバイトでも、いつもお世話になっております」  深々と梨音が頭を下げる。  娘をよその家に嫁がせるみたいな儀式はやめてほしい。……いや、嫁って。  しかもつられてぺこり、と頭を下げる菱も可愛すぎる。 「一回一緒に飲んでみたかったんだ。良かったらどうかな?」  有無を言わせないような梨音の満面の笑みに菱が絶句している。完全に困惑の表情だ。  梓はすかさずおたおたとフォローに入った。 「いや、別に無理にとは言ってないし、菱には菱の予定があるかもだし! ていうかそもそ も、別に急に今日ってんじゃなくてもいいんだよ!」  日にちを改める手段もある、と力説する。あわよくば伸ばした日にちがその後も伸びて、伸びて、無かったことになって欲しい。親友に好きな人を紹介するなんて。恥ずかしくて耐えられる気がしない。 「ああ、いや……予定は特にないから、行ってもいいなら行こうかな」 「お、本当? じゃあ行こうよ」  梨音がすかさずノリを途切らせないように続ける。菱が驚いているのは、梨音のレスポンスの速さなのかもしれない。すぐに返ってきた言葉に少し驚くようにしながら、照れたように笑った。 「二人で水入らずって感じならお邪魔かなと思ったんだけど、むしろ歓迎されてるのかな、と思ったから」 「何言ってるの、超歓迎だよ。さ、そうと決まれば全は急げ」  真っ先に学部棟を後にしようと歩を進める梨音の後ろ姿に、もう少し食い下がろうかと口を開きかけた、のだが。 存外楽しそうに微笑んで後に続く菱に、梓は口を噤む他なかった。

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