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第14話

「ありがとうございました」  最後の客の退店を見届けて、本日の営業が終了した。出入口を施錠して、ドアの窓にカーテンを降ろす。フロアに戻りながらカウンターの椅子を机の上に反転して重ねていった。最後の椅子を重ね終えたところで顔を上げると、目の前を食器が通り過ぎる。 「バッシング終わったからダスター」  バッシングとは客席から皿を下げること。ダスターはテーブル用の台拭き、またはテーブルを拭くことそのものを意味する。要するに、皿は下げておいたからテーブルを拭いておけ、ということなのだろう。  本日の夜シフトのリーダーを務めるのは史也である。いつ見ても無表情―客商売なのでお客様の前では若干口角が上がっている気もする―な顔も、雑な指示を飛ばすその態度も、今日も今日とて怖すぎる。  そしてここの所ほぼ毎回、史也がシフトリーダーの日には菱が休みなのである。偶然ではあるだろうが、心の癒しもいない上に恐怖政治の下で働かなければならないのは、なんとも苦痛だ。 「……ハイ」  小さく返事はしてみたものの、指示には承服しかねる。主に言い方の部分において。  そうは言っても閉店業務はスピーディにこなさねばならない。今日は店長も休みの日なのでキッチンの人が店の施錠を任されているらしい。ともあれ誰が店を閉めるにせよ、要らない負担をかけるのは良くない。さっさとフロアを片付けて、着替えて、帰ってしまおう。 (えーと、桐原さんがレジ締めるからおれはフロアのモップとダスターの消毒、だな)  最後の客が去ったテーブルにダスターを掛けながら、この後の作業を頭の中で組み立てる。毎度行う作業ではあるが、こういうのは一度頭の中で流れを整理しておくと無駄も省けて効率が良い。そしてそのまま、終業後もイメージしておくのだ。 (終わったらロッカーで着替えて、キッチンの人と桐原さんに挨拶して、店を出て)  そこではた、と気が付いた。  そうだ。  今日は準備を終えたら気ままに一人で自宅へ帰る訳ではないのだった。  昨日、梨音が菱にさせたとんでもない約束。 ――菱、明日からバイトの帰りに梓を家まで送っていってあげてくれない?  その頼みを聞いた瞬間、梓は人目もはばからず素っ頓狂な声をあげ、菱は意味も分からず目を丸くして固まった。 「まったく、本当、とんでもない……」  はあ、と大きくため息をつきながら、ダスターを手放しモップへと手を伸ばす。まだ床を磨いているわけでもないのに、梓の頬はほんのりと紅潮していた。  梨音が菱に説明したのは、梓を気遣ってか、上手く真相を隠したものだった。  まず、今現在梓はストーかーに悩まされているということ。まだ実際に梓自身に直接の被害があったわけではないが、梨音は間違いなく久木が梓に接触してくると推測している。そのために、久木を一方的なストーカーと説明し、接触を未然に防ごうとしていると菱に伝えた。  平日、バイトが無い日や菱だけがシフトに入っている日は、梨音やフリアが梓を家まで送る。そしてバイトがある日には菱が梓を家まで送るというものである。  しかし、それではあまりに菱の負担が大きすぎると梓は言った。  梓の家は大学とバイト先のちょうど中間地点のあたりにある。対して、菱の家はバイト先から目と鼻の先にあるのだ。梓を送ろうと思うと一度大学方面へ引き返すような形になってしまう。シフトが一緒の日には百歩譲って送って貰ったとしても、わざわざバイトが無い日に迎えに来てもらって、尚且つ自宅より遠い梓の家まで送って貰うなんて、申し訳なさすぎる。  そう言って梓が梨音の頼みを辞退しようとしたとき、菱は梓より余程真剣にそれを制止した。 ――梓、困ってるときに遠慮なんてしないでよ。俺に出来ることなら、させて欲しい。  梓の力になりたい、と菱は言った。もちろんその発言に梓が惚れ直したのは言うまでもなく。梨音は満面の笑みを浮かべた後、真摯さが残る瞳で菱そして梓を見て覚悟を決めるように頷いたのだった。  そうして、梨音がさせたとんでもない約束は本日から施行されることとなった。  しかし、世の中そう甘くもない。突然取り付けた約束が既に取り付けてある先約を無かったことにする魔法などない。 「とりあえず菱に連絡入れておかないと」  ポケットからスマートフォンを取り出して、もうすぐ終わるとメッセージを打つ。しばらくしても既読はつかない。それもその筈だ。菱は今日、同郷の友人たちが揃うという飲み会に参加しているのだ。  梨音がとんでもない約束を取り付けた直後、菱は申し訳なさそうに予定を口にした。近隣の大学に進学した同郷の友人との飲み会がすでに約束されているのだと。生憎、今日は梨音もフリアも他に用事があり、代わることが出来ないらしい。  梓はもちろん、今日は一人で帰ると提案したが、それが飲まれることはなかった。 ――久木が大学に現れた翌日に一人で行動するなんて危険すぎる。あいつは絶対、明日梓をつける。  朝や昼間なら人通りも多いが、夜になると閑静な住宅街にはほとんど人通りが無くなる。そこで一人になってしまっては久木の思うつぼだと梨音は言った。 つける、なんてぞっとする。つけてどうする気なのだろうか。得体が知れないからまだどうすることも出来ない。そんな事実に顔を青ざめていると、思案していた菱が提案した。 ――飲み会、早めに切り上げて梓のバイト終わりまでに戻るよ。  その言葉を待っていたとでも言うように、梨音が菱の手を取ってぐっと握手を交わしたのは言うまでもない。せっかくの友人との時間を邪魔するなんて、と提案を却下しようとする梓に、菱はまたもや先ほどの口説き文句を浴びせ、おこがましいと思いながらも嬉しさに甘んじる他なかったのである。  スマートフォンをポケットにしまって、モップ掛けの続きを再開する。バイトが終わるまでには何らかの連絡が来るだろうし、もし友人たちとの会話に花が咲いているのであれば、無理をさせるのも申し訳ない。自転車を全力で漕いで帰れば、きっと久木も手を出してくることは無いだろう。  そう思った瞬間だった。  がしゃん、と大きな音がして、梓の頭の横を何かが通り抜けた。梓の後方でまたがん、と大きな音が鳴って何かがぶつかったのだと分かった。  咄嗟に振り返ると、そこには紙に包まれた丸い拳大のものが転がっている。おそらく最初の衝撃音は窓が割れた音だろう。そう思って窓の方に視線を動かした、その端に。 「――っ」  赤地に黄色と白の螺旋状の模様が描かれたシャツがひらりと舞って、去っていった。

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