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2016年3月26日(土)お題「卒業」
進学が決まり、一人暮らしを始めた。親元を離れての生活は最初こそ戸惑いばかりだったけれど、すぐに慣れたしホームシックになるような繊細な神経を持ち合わせていなかった。
それなりに勉強をして。
それなりに遊んで。
それなりに悪い事も覚えた。
『悪い事』をするのに一人暮らしはとても便利だった。
地元と違い、ここのすれ違う人々は俺の事など気にもとめない。友人という名の連中とも付かず離れずの距離を保てば、必要以上にプライベートにまでは案外入り込んで来ないものだ。
俺はさらに違う土地へ就職が決まり、その報告をするべく四年ぶりになる実家の前にいる。
気が重いのはよくある話だ。
いや、よくある話にしてはいけない類に入るけれど。
「兄さん…?」
一番聞きたくない声が届いた。素知らぬ顔を作り振り向いてやる。
「よぉ。しばらく見ないうちにデカくなったなー」
「……四年もあれば誰だって変わるよ。兄さんは変わってないみたいだけど」
ツンと澄まして冷たい物言いをするようになったのは、俺の進学が決まった時だ。
弟に進路の相談をするやつは恐らくいないんじゃないかと思う。だから俺もしなかった。すべてが決定してから伝えた途端に、弟の明るく優しい笑顔がスッと消えた瞬間は今でも鮮明に覚えている。
誰もいない見慣れた懐かしい家の中をキョロキョロ見回していると、制服のままの弟がボソッと言った。
「母さんもパート始めたから。僕もここから通える大学に奨学生として進学する事になったし、バイトもしてるし」
四年間、仕送りをもらい自由気ままに遊び呆けていた俺を責めるのは当然だろう。
「四月から社会人になるから、今度は俺が仕送りする番だな」
きちんと返すものは返すと言ったのが気に障ったのか、弟はずっとそらしていた視線をギッと向けてきた。
「仕送りって、なに」
「え?」
「また、帰って来ないの」
「……しょうがねぇだろ。こっちで見つけられなかったんだから」
違う。
見つけられなかったんじゃない。
探しもしなかった。
ここに戻るという選択肢は四年前に捨ててしまった。
「僕から逃げるんだ」
ギクリとしたけれど知らないふりをする。
よくある話とは、親の再婚で義理の兄弟になった相手に想いを抱いてしまう事。男女であればまた話は変わったのかもしれないが、残念ながら俺たちは男で、俺はゲイだ。
『悪い事』をしても、大切な人たちを傷付けずに自分自身に嘘をつく必要もなくなる。離れていれば想いは薄らいでいくと信じていた。
「逃げるって、そんな理由はどこにもないだろ」
離れていた月日は弟を強くしたのだろうか。記憶にある幼さの残った顔立ちの面影はあるものの、真っ直ぐな視線は男のそれ。
「知ってるよ。兄さんがここを出て行ったのも、帰って来ない理由も」
真っ直ぐな強い瞳が俺を離さない。
「僕はいつまでも子供じゃない」
卒業が別れだなんて誰が決めたのだろう。
「……子供のままだったら良かったのにな」
始まりの予感に俺たちは兄弟には戻れないんだと確信して帰ってきた事を後悔した。
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