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第18話 さよなら日本、さよなら大好きな人

 翌朝、チェックアウトを済ませた大澤(おおさわ)父子は、ホテルの前に停まっていた黒塗(くろぬ)りのタクシーにその日の訪問先である商社の名前と住所を告げ、トランクにスーツケースを積み込んだ。アポイントの後は成田空港に移動し、ケニアに帰国する予定だ。  タクシーは皇居の横を走り抜ける。別れたばかりの恋しい人との思い出が色濃く残る場所だ。冬馬(とうま)は胸をえぐられるような気持ちになった。しかし感傷に浸る間もなく車は目的地に着いた。  車寄せに停まったタクシーから父より先に降りた冬馬に、近寄ってくる男。  視線をあげた冬馬は、口を開けたまま固まった。 「……遠路(えんろ)ご来訪ありがとうございます。ケニア・エナジー・カンパニーの大澤 孝則(たかのり)様と、ご令息(れいそく)の冬馬様ですね? 本日ご案内させていただきます河合(かわい)と申します」  目の前で礼儀正しい微笑を浮かべていたのは、他ならぬ雄吾(ゆうご)だった。彼は一瞬だけ冬馬と目線を交わしたが、顔色一つ変えず素知らぬ顔を通していた。  制服姿の受付嬢と目配せした雄吾は、応接室へと父と冬馬を案内してくれた。  化学プラントビジネス事業部の管掌(かんしょう)役員と、事業部長が既に中で待っており、冬馬達が応接室に入るなり、笑顔で立ち上がった。 「大澤さん! お忙しいご出張中に、お時間頂き、ありがとうございます」  管掌役員と父は、がっちりと固い握手を交わした。 「いえいえ、こちらこそ。御社のような大手商社にお世話になるほどではなかったものですから、つい遠慮してしまいまして。今日は図々しくも、こうしてお邪魔させていただきました」  父が控え目に微笑むと、管掌役員は、冬馬のほうに目線を向けた。 「立派な息子さんもいらっしゃって、将来安泰ですな」  他の訪問先では、いつも、最後に取って付けたようにご機嫌取りされることが多かったのに、この商社では、二言目で自分を話題に出され、冬馬は軽く驚いた。隣で事業部長もうんうんと頷いている様子を見ると、この商社では、大澤 孝則が一粒種(ひとつぶだね)の息子を伴った意義を重く考えている様子だった。 「まだ学生ですから何とも言えませんが、嬉しいことに、将来は私と同じ仕事をしたいと言ってくれてまして。今回は社会勉強のために連れてきました。秋からはアメリカに留学させて、技術と経営の勉強もさせる予定です」  父も、包み隠さず、冬馬に懸ける期待を言葉にした。 「ほお。それは頼もしい」  一連の儀礼が終わり、全員が掛けると、管掌役員が、ケニアの事情を熱心に質問したり、事業部長から、この商社が手がけた最近のプラントプロジェクトの成功例を説明してくれた。大学ではまだ基礎的な勉強が主で実務経験のない冬馬には、とても興味深い話ばかりだった。父は書類を取り出し、その場にいた全員に手渡した。 「実は近々、LNGプラント設備の一部を更改(こうかい)する計画があります。御社のビジネスとしては小規模でしょうが、もしご興味があれば、提案をご検討いただけますか」  商社マン達は猛烈な勢いで資料をめくり始めた。冬馬は、父の鞄持ちである自分の立場を一瞬忘れ、思わず口走った。 「今回の主な更改対象は有害物質除去装置ですが、周辺設備も相当老朽化が進んでいると想定しています。段階的な更改ロードマップが必要なので、アセスメントについてもご提案いただけるとありがたいです。弊社には残念ながら大規模更改の体系だったノウハウが無いので」  商社マン達は資料をめくる手を止め、食い入るように冬馬の言葉に聞き入ると、真剣な表情で頷いた。 「ぜひ、アセスメント含めてご提案させてください。それこそ我々の付加価値ですから。次回は、我々がナイロビに伺わせていただきます」  管掌役員は力強く言い切った。  双方にとって(えき)のある会合になって良かった。冬馬の胸を充実感が満たした。しかも、他ならぬ雄吾の勤め先で。約束の時間が終った。管掌役員と事業部長が玄関まで見送りに来てくれるようだ。  雄吾とは、ここでお別れ……?  一瞬、すがるような眼差しを雄吾に向けると、彼は表情を変えずに、すっと冬馬に近付いた。そして、ジャケットの内ポケットからCDくらいの大きさの半透明のケースを取り出し、冬馬に手渡した。  その瞬間、他の人からは見えない角度で、彼は指先で冬馬の指を撫でた。それだけで、昨日までの熱い抱擁を思い出し、冬馬の身体は小さく震えた。 「……ご令息に、東京の記念写真を」  不思議そうな顔で見ている役員や父に、雄吾は口数少なに説明した。一同はそれほど気にした様子もなく前を振り返り、今度はぜひゴルフに行こうなどと社交的な会話を交している。  雄吾は、エレベーターホールで丁寧に頭を下げ、大澤父子と役員たちを見送った。車寄せにスタンバイしていた黒塗りのタクシーに乗り込み、管掌役員と事業部長に見送られ、冬馬たちは成田空港を目指した。父は昨日も接待ゴルフで疲れていたらしく、車が動き出すとすぐに生欠伸(なまあくび)をし始めた。 「どうせフライトは長いから、仕事は機内で幾らでもできるからな」  首都高環状線を抜けて走行が安定的になると、父はそう(ひと)()ち、うとうと居眠りを始めた。  冬馬は、内ポケットから、別れ際に雄吾がくれたものを震える指で取り出した。それは、雄吾がスマホで撮影した東京での冬馬の姿をまとめた、フォトブックだった。  豊洲市場で、ビニール手袋をはめて見知らぬ魚貝に恐々と指を伸ばす姿、  ゆりかもめで、電車の窓ガラスに額を張り付けて、子どもみたいにきらきらした目で外の景色を眺める姿、  頬が丸くなるくらいにクレープを一杯頬張(ほおば)ったお茶目な姿、  新宿二丁目で、お姉さん達と一緒にダンサーの羽の飾りを首から掛けてポーズを作った姿……。  そして……。  最終ページを見た時、冬馬は思わず声をあげそうになり、口を押さえた。  それは、後朝(きぬぎぬ)の冬馬の寝顔だった。裸の肩や背中を布団の合間からのぞかせ、無防備な表情を見せていた。全身から(ただよ)う幸せそうな空気や、向けられたカメラの優しい眼差しから、雄吾の愛情が伝わってくる。  冬馬は悩んだのだ。 「帰りたくない。このままそばにいさせて欲しい」と言うべきか。  星の王子様は、大切なものは自分の星に残してきた一本の薔薇だと気付き、全てを捨て、魂だけになって星に帰った。  同じように、もし自分が大切な故郷や家族、何もかも捨ててこの恋に走ったら、雄吾は受け入れてくれるだろうかと。  しかし、世界を股にかけて活躍する有能な商社マンである雄吾の足手まといにはなりたくはなかった。輝いている彼の傍にいたら、自分の夢を捨てたことを、いつかきっと後悔するであろうとも。  フォトブックの最終ページには、慌てて貼ったと思われる付箋が折れ曲がって付いている。何が書いてあるのだろう? 確かめるために付箋の皺を伸ばし、冬馬は息を呑んだ。 “To Thoma, I love you. Hugo” (冬馬へ、愛してる。雄吾)  少し右肩上がりの癖のある、慌てたような筆跡を、冬馬はそっと指でなぞった。 (雄吾……。僕も、あなたを愛してる。一緒にいた時間が短くても、この気持ちは確かだよ)  冬馬は胸にそっとフォトブックを抱き締め、生まれて初めて愛した人を思い、静かに涙を流した。

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