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最終話 王子様はもう恋をしている
インターン先であるアメリカ企業の会議室で、冬馬 は、人事担当者を待っていた。
会議室の窓からは深い森林が見え、時折心地よい微風 が流れ込み、頬を撫 でる。自然が豊かで静かな場所がインターン先で良かった。冬馬は小さく微笑んだ。
「工学と経営」という父のアドバイスに従い、どちらの分野でも有名なカリフォルニア州立大学バークレー校に入学してから二年の月日が流れていた。
バークレーは、サンフランシスコと湾 を挟んだ反対岸にある、小さな学生街だ。アメリカに本社を置く大手石油会社は幾つかあるが、そのうちの一社が、バークレーから車で三十分の距離にある。
先進国のエネルギー業界大手企業で実際に働くことは、留学のもうひとつの目的だった。完璧 なクイーンズ・イングリッシュを話し、ケニア最大のエネルギー会社のCEOを父に持つ冬馬は、その会社でのインターンとして即座に受け入れられた。
約束の時間になったのに担当者は現れない。前の会議が伸びているのだろうか。それとも、上司から突然電話でも掛かってきたか。
(日本企業ならまだしも、アメリカで会議が伸びることはないな)
こんな場面でも、一度しか訪れたことのない日本を思い出した自分に、冬馬は一人苦笑した。
彼が日本を訪れ、初めての恋をしたのも、二年前のことだった。
雄吾 から贈られたフォトブックは、何度も眺めすぎて擦り切れつつあったが、思い出が色褪せることはなかった。心と肌を重ね合った甘やかで切ない休暇を思い出すたびに、今でも胸が締め付けられるほどに。
初恋の人に心を馳 せていると、ドアが慌 てたように音を立てて開き、赤い縮れ毛で背の高い男性が入ってきた。
「ごめん! お待たせしてしまって。オフィスを出ようとしたら、ボスから電話が掛かってきちゃって。僕、アレックス」
彼は申し訳なさそうに肩を竦め、手を差し出した。
「いえ。お忙しいところ、色々差配 してくださり、ありがとうございます。UCバークレーの工学部生、トーマです」
冬馬はにっこりと彼の手を握り返した。
「早速、インターン中の君のトレーナーを紹介するよ。荷物も持ってきて」
唯一の荷物である軽いバックパックを肩に掛けて冬馬は立ち上がり、アレックスについて行った。
「君は大学で工学を学んでて、ケニアでの会社経営に備えて、インターンでは資金調達やプロジェクトマネジメントの実務を学びたいんだよね? 彼は、まさにその分野のエキスパートだから適任だ。うちの会社に来て二年、いや一年かな? 社歴は長くないけど、この業界の経験は豊富だから、きっと勉強になると思う。名前はヒューゴだよ」
冬馬は、無言で軽く微笑んで頷き返した。
人種の坩堝 のアメリカでは、差別問題に敏感だから、人の年齢や容姿について言及することは滅多にない。ヒューゴという名前から、おそらくドイツ系男性だろうと当たりを付けた。
アレックスが、ヒューゴのオフィスのドアを軽い音を立ててノックし、中からの返事を確認して開けた。
「ヒューゴ。こちらが学生インターンのトーマ。UCバークレーの工学部生。
トーマ。こちらが君のトレーナー。マネージャーのヒューゴ」
「よろしく、冬馬」
柔らかい笑みを浮かべて冬馬に手を差し出しているのは、雄吾だった。
「じゃ、ヒューゴ、あとはよろしく。トーマ、何かあったら僕のオフィスに電話して」
雄吾の手を握り返す冬馬の呆然とした表情に気付きもせず、アレックスはせわしなく雄吾のオフィスを出て行った。
「……どうして、雄吾がここに?」
冬馬は驚きを隠せないまま、どうにか言葉を絞り出した。
「転職したんだ。昔、ブラジルの現場で一緒だった仲間に誘われてね」
住む国も会社も変えるという大胆な選択をしたにも拘わらず、雄吾は、あっけらかんとしていた。
「……アレックスが『ヒューゴ』って呼んでたから、全然気付かなかったよ」
冬馬が、信じられないといった表情で首を振ると、雄吾はクスクス笑った。
「ああ。俺の名前、パスポート表記は”Hugo”なんだよ。フランス語圏ではその綴りでユーゴって読むんだ。商社で最初のお客さんがフランス企業でさ。以来ずっとHugoで通してる。英語圏に来るとヒューゴって呼ばれちゃうんだけど」
(ああ……、そう言えば、フォトブックに添えてあったメッセージの署名も”Hugo”だった)
走り書きされた彼の愛の言葉を思い出し、冬馬の身体は熱くなった。
雄吾は歯を見せて笑い、腕を組んで自分のデスクに凭 れながら、楽しそうに冬馬を見ている。日本の勤め先では、前髪をあげた保守的な髪型にまとめ、ダークスーツ姿だった。今は、いかにもカリフォルニアらしく、ボタンダウンシャツにチノパンというビジネスカジュアルの装いだ。髪型も、プライベートの時のように長い前髪を自由に揺らしている。
恋に落ちた時とまるで変わらない彼の姿に胸がときめいた。
「アレックスからトレーナーを頼まれてさ。インターンのレジュメ見て、冬馬だって気付いてびっくりしたよ。この業界で働いてたら、もしかしたらいつの日か、こういうこともあるかも知れないと思ってたけど」
雄吾は愉快 そうに目を細め、唇の片側だけを引き上げてニヤリと笑った。
彼の唇がこんな風にセクシーに歪 むのを見て、二年前の自分は、どれだけ胸をときめかせたか。いや、二年前だけじゃない。今だって、彼が視界に入った瞬間から、自分の目も心も奪われている。
冬馬は少し唇を震わせ、潤 んだ瞳で雄吾を見つめ返した。
「君がこの業界に踏み出す第一歩を手伝えることを光栄に思ってる。俺を、思いっきり活用してくれ。君の夢を叶えるために、俺が少しでも役に立てれば嬉しい。
……この二年間、君のことを考えなかった日はなかった」
優しい笑顔で見つめられ、冬馬は、ひゅっと息を呑んだ。胸も瞼 も熱い。たぶん、もう自分の目にはいっぱい涙が浮かんでいるだろう。ゆがむ視界のうちに、冬馬は思った。
これが愛ではないと言うのなら、自分は愛なんか知らない。
二人は無言のうちに熱い視線を絡ませたが、雄吾が先にくしゃりと顔を崩して笑った。
「……冬馬。すごく会いたかった」
しかし、思わず抱き付こうとした冬馬を、雄吾はやんわり押し止めた。拒絶されたと思って青ざめた冬馬の両手を握り、雄吾は宥 めた。
「ここ、アメリカ企業だからさ。上司の俺が、部下の君と恋愛するのは、御法度 なんだ。セクハラ訴訟が多いから、会社の就業規則で禁止されてる。大学で教わらなかった?」
子どもをあやすように諭 され、冬馬はバツの悪そうな表情を浮かべた。
雄吾はゆっくりとオフィスを横切り、ドアの鍵を掛けた。そして振り返りながら、悪戯 っぽい表情を冬馬に向けた。
「……だから、インターン中は絶対に誰にも内緒。もし、その後、冬馬がうちに正式に就職することになったら、その時は、君と付き合ってるって会社に報告する。他の人が君の上司になってもらえるように」
両手を広げた雄吾の胸に、今度こそ、冬馬は迷わずに飛び込んだ。
「明日からは、会社ではキスやハグは無しね」
弾んだ声で、雄吾は冬馬の耳元に囁いた。
冬馬は、サバンナを照らす力強い太陽のような眩 しい笑顔を返した。
「じゃ、今日は良いんだね?」
返事を待つことなく、冬馬は強く雄吾に口付けた。
王子様はまだ恋を知らない(完)
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