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始まりは誰も知らない Ⅰ

朝起きて、時々不思議な気分になる。朝の光は容赦なく、全てのものを鮮明にするから嫌いだった。今だって嫌いから方向が苦手に少し動いたくらいで、印象は余り変わっていない。けれど最近のトレンドとしては「不思議」だった。この一言に尽きる。思えば朝賀の周りの環境自体が、最近とみに「不思議」方向に偏っている。それを放置しているのは朝賀本人であったが、それに悩まされているのもまた、朝賀本人に違いなかった。そこまで考えてふと我に返った。悩まされているのだろうか、本当に。考えながら胸中で、その言葉を確かめるように繰り返してみる。悩まされているのならば、贅沢な悩みには違いないのだ。困ったことに。ふと思い立って、いつもと景観の変わらぬ自分のベッドの上で寝返りを打ってみる。布団に顔を半分埋めるようにして、カーテンから差し込む容赦のない光の中に、月森は眠っていた。それを暫く、朝賀は息を殺して眺める。不思議な眺めである。何度出会ってもまた、自分はこう感じるのだろうと朝賀は誰に聞かれるまでもなく分かっていた。朝賀は気配を隠しながら、ゆっくりと月森のほうに手を伸ばして、その長い前髪を触った。柔らかい髪は大学で見かける学生たちと何ら変わらない尺度で十二分に茶色い。その人工的な色合いまでも、朝賀は狂おしいほど愛していた。不思議な情景はいつも朝賀を幸福にするので、喉まで詰め込まれたそれを、飲み下すのが精一杯だった。ふっと息を吐いて朝賀はベッドから起き上がった。月森にもかかっていた布団が一緒に捲れて、直そうと手を伸ばしたところで、朝賀は一度躊躇した。いつまで経っても見慣れぬ月森の締まった体が、そこに無防備に転がっていたからである。慌てて目を反らして、朝賀は手の感覚だけで月森のほうの布団を直し、自分はベッドから降り立った。 臆病な自分には、ほとほと愛想が尽きる。自分でさえそうなのに、月森が何故見放そうとしないのか、朝賀には分からない。分からないことがまた、朝賀を不安にも臆病にもさせるのだ。悪循環はしつこく渦になって、朝賀を中々離そうとはしない。しつこさに辟易しながら、何処か居心地が良いので困る。まだ眠気の残る体を引き摺って、朝賀は洗面所まで歩いた。起きたら取り敢えず、顔を洗うことを習慣にしている。こうすれば早く目が覚めることも知っている。いつものように少し冷たい水で体に残った生温い温度を落として、朝賀は顔を上げた。そこには見飽きた自分の顔が映っているはずだった。いや、現に映っていた。 「わぁあっ!」 柄にもなく大声が出て、それに一番吃驚していたのは朝賀本人だった。吃驚し過ぎて転倒しかかったくらいだ。壁一枚向こうで、月森が何やら言ったような気配がした。どうも起こしたらしい。仕方ないだろう、あんな大声で喚かれたら誰でも起きてしまう。関係のないことを考えてしまうくらいには、その時朝賀の頭の中は真っ白だった。目を見開いて驚いた形相の鏡の中の自分と、しっかり目が合っている。しっかり目が合っているくせに、朝賀は現状を上手く飲み込めないでいるのだ。 「おはよー、朝ちゃん」 ふらふらと廊下の向こうから月森がやって来た。声に遅れて鏡にその姿が映り込む。相変わらず上半身は裸だった。しかし今は、それをとやかく言っている場合ではない。少なくともその時の朝賀の状態はそうだった。月森も起き抜けで眠いのだろう。欠伸を噛み殺しながら近づいてくる。半分しか目の開いていない顔は、いつもの精悍な月森に比べれば幾らか彼を幼く見せて、朝賀はそれに一抹の安堵感を得ていた。しかしその幼い容貌の月森は、そのまま後ろからがばっと朝賀に腕を回して、吃驚して震える朝賀の首に軽く口づけた。目が合っている自分が、あからさまに動揺をその瞳の中に溢れさせる。 「おはよう、朝ちゃん」 そうして朝賀の耳元で擦れた声で囁くのだから、もう何がどうなっているのか分からない。取り敢えず朝賀は、月森の腕をやんわり拒否して月森から距離を取ると、ふうと肩で息を吐いて痛み出したこめかみを抑えた。偏頭痛は月森と関係してから頻度を確実に落としながらも、朝賀の分が悪い状況には必ず顔を出して、注意を喚起する。それに煩わされているのか、助かっているのか、朝賀は区別がつかない。何がどうなっているのか、朝賀には分からなかったが、これは、鏡の中のこの状況は、どう考えても月森の仕業に違いなかった。だってこの部屋には月森と自分しかいないのだ。夢遊病にでもかかっていない限り、こんなことは起こり得ない。朝賀は一度目を開けて月森を見上げた。男は年下のくせに、朝賀より10cmは背が高かった。月森は眠そうな表情に、幾ばくかの疑問符を乗せて朝賀を見下ろしていた。気のせいかいつもより視界が広く、だからこそこれが気のせいではないということをゆっくり悟る。こめかみは痛いままだ。 「・・・月森くん、僕の、髪を・・・」 「かみ?あぁ、なんだ」 用件の全てを言い終わる前に、月森は事情を飲み込んだ表情でにこりと微笑んだ。何故彼がこの期に及んで笑ってなどいられるのか、分からない。朝賀は全然分からなかった。困惑した朝賀のその、随分短くなった前髪を月森は満足げに眺めた後、揃っていない毛先を撫でた。 「良いでしょ、俺結構上手いんだよ」 「・・・やっぱ、り、月森くんが、やったんだね」 「そうだよ、ホラ朝ちゃんも見て、こっちのほうが良いよ」 月森は心底愉快そうに言うと、朝賀の肩を掴んでくるりと鏡のほうを向かせた。そこには冴えない顔をした男が、冴えない顔を晒して立っている。目を覆いたくなるような惨い光景だった。少なくとも朝賀にはそう思えた。月森には悪気というものがない。彼の中にはそんなものははじめからありはしないのだ。だから彼を恨むのは筋違いのような気がする。良かれと思ってやってくれている彼の好意を、踏みにじるのは酷く横暴のような気がする。悪気がないことは正義だと思う。それも一番の正義だと思う。月森は生得的にそれを持っている。だから底抜けの明るさで、皆が彼を慕うようになっていくのだ。 「あれ、朝ちゃん気に入らなかった?」 「・・・いや・・・」 不服と思っているのが表情に出ていたのだろう。敏感にそれに気付いて、月森は意外そうな声を上げた。朝賀の前髪は酷く長かった。津村にも以前から見苦しいから切ったらどうだと散々言われてきたが、切れば済む嫌味の前に屈したくはなかったし、何より開けた視界で、他の人がするように同じものを見て、そこで生きていくのは嫌だった。余りにも息苦しくて耐えられなかった。鏡の中で酷く困惑した表情の自分がいる。まだ朝賀の肩に手を置いている月森は、その朝賀を心配そうに覗き込んでいる。月森が悪いわけじゃなかった。長い前髪の奥で暗い顔をして俯いている自分が嫌だった。ただそれだけのことなのだ。けれどきっとこういう種類の焦燥を、月森は理解できない。月森はそれとは全く無関係の世界で生きているから、だから月森は理解できずに、朝賀の前髪を簡単に切ってしまえるのだ。自分のほうが長い前髪をしているくせに。 「朝ちゃん、前向いて」 いつもと違う様相を目聡く察知して、月森が落ち着いた声を出す。こういうところ、こういう月森の美点を見つける度、朝賀は酷く落ち込んだ。落ち込まずにはいられなかった。憎らしくて、羨ましかった。そういう器用さが少しでも自分に備わっていればいいのに、と思った。月森には全く無関係のレベルで酷く自虐的になり、そんな自分にもまた嫌気がさした。 「うん、やっぱり。こっちのほうがずっといい」 「・・・そう、かな」 「そうだよ、俺のこともちょっとは信じて」 「・・・―――」 ちょっとどころか心酔している。心底信じ切っている。そんな自分が恐ろしくもあり、また誇らしくもあった。俯く朝賀の頬を撫でて、月森が屈んでその上唇にキスを落とす。こうやってじわじわ、きっと何でも許してしまうのだろうと考えながら朝賀はうっとりと目を閉じた。どうしてか分からない。けれど視界なんて、月森に出会ったその日から、遥かに開けていたのだと、どうして彼に教えることが出来るのだろう。触れるだけの唇を酷くゆっくり離して、月森はもう眠気のない表情を柔和に歪めて笑った。 「おはよう、朝ちゃん」 「・・・おはよう、月森くん」 そうは言っても、大学に出向くのはかなり億劫だった。月森がバイクに乗って出ていくのを見送った後、部屋に戻って一人きりになってから、朝賀はまた途方に暮れた。帽子でも被っていこうかと思ったが、行く道はそれで良いかもしれないが、大学に着いたら結局取らなければならない。意味がない。何度も諦めて溜め息を吐いて、諦められなくて鏡を覗き込んだ。信じていないのはやはり、自分のほうなのだろうか。しかし信じろというほうが無理で、横暴な話だ。少なくとも朝賀はそう思う。月森は何を思って、ここで自分の肩など抱いていたのだろう。何を目的に唇にキスなどするのだろう。考え出すと終わりだった、泥沼だった。答えのないところを彷徨って、壁に当たっているのに気付かず、手足をばたつかせているようなものだった。悲しくなって朝賀は俯いた。もうすぐここを出なければならない時刻が迫っている。そろそろ見切りをつけるべきだった。そうは分かっていながら、朝賀は立ち上がってもう一度だけ洗面所に駆け込んだ。前髪は依然短い。ともすれば先刻見た長さより、ずっと短くなっているような気もする。洗面台には月森が置いて行った、色とりどりのワックスだのスプレーだのが並んでいたが、使い方が分からない以上、手を出すのは危険すぎるような気がした。 (往生際の悪い・・・) 溜め息を吐いて、朝賀は鏡に背を向けた。これ以上は無意味とようやく理解できたからではない、時刻が迫ってきたからだ。

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