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始まりは誰も知らない Ⅱ

大学に着くと、今まで以上に俯いて歩いた。朝賀を気にする学生は少なかったが、それでも時々、月森みたいな稀有な学生がいて、教授陣より年が近いことだけを理由にして、朝賀に妙になついてくるので、油断はならない状況だった。月森は一旦家に戻ると言っていたから、学内にいるかどうか怪しい。いても朝賀から声は殆どかけない。月森は以前のままの気さくさで、時々研究室にも顔を見せる始末で、朝賀はその度に、自分の部屋で会っている月森と目の前の男を上手く重ね合わせることが出来なくて、時々酷く混乱する。自分の行き過ぎた妄想なのかもしれないと、学内で友達に囲まれた月森を見るたびに思う。どう考えても自分の妄想は、自分に都合が良いように出来ていて信用できなかった。その都合の良い月森が、自分の前髪を切ったことを考えると、やはり妄想ではなく現実なのだと理解することはできるが、それにしても苦々しい現実だった。こんなことで思い知らされたくはなかったと、口から出た溜め息は肩をより一層重たくした。 「朝ちゃん、おはよー!」 「わっ!」 そんなことを考えながら、顰め面で歩いていると、後ろからどんという衝撃とともに声がして、朝賀は前につんのめった。周りを歩いていた学生が、眠そうな目で一度振り返った後、興味なさそうに首の角度を戻して前を向いて歩いていく。そうだ、世の中はこんなにも自分に無関心なのだ。それなのに何故、前髪が短くなった程度でうじうじしてしまうのだろうか。自意識過剰にもほどがある。考えながら朝賀は腰に手を当てて振り返った。声は高かったし、背中にかかった体重も軽かったから女子生徒のはずだ。 「うわ、朝ちゃんどうしたの・・・?」 想像通り女子生徒だった。名前は忘れたが、月森の友達の一人だろう。ショートパンツから伸びた細い足が目に痛くない程度に健康的だったが、朝賀は慌てて目を反らした。何故か後ろめたい気分にしかならないが、大学はこんな女の子で溢れ返っている。自分はマイノリティだから良いものの、他の講師陣は色々気を遣うだろうなぁとまた要らぬことを考えて、米神を不必要に痛くしている。最早それは自分の癖のようなもので、朝賀自身のコントロールから遥か離れたところに主体性を持っている。 「前髪、切ったんだー」 「え、あ」 忘れていた。彼女の言葉に一瞬で青くなり、慌てて手で覆う素振りを見せて、自意識過剰という内側の声に、それも半端に終わる。女子生徒は朝賀のそんな奇行をまるで気にしていないような声色で、快活に笑い声を上げた。そういう若い女の子の笑い声は、時折酷く暴力的な凶器になる。それに怯えて暮らしているのは、自分くらいなものなのだろうか。少なくとも月森はそんなことは考えない。しかし彼を基準に物事を推し量って良いものかどうか、朝賀は全てに答えを見つけ出せない。 「良いじゃん!」 「え・・・?」 「良いじゃん、それぇ。朝ちゃんそのほうが全然良いよー」 にこにこ笑って彼女は他意のない声色でそう言うと、大き目の鞄を揺すって朝賀の前からひらりといなくなってしまった。呆然と彼女の痕跡を朝賀は目で追った。何それ、気持ち悪い、と言われるのかと思って身構えていた。朝賀はぼんやりしたまま短くなった前髪を触った。やはりその長さは心許なく、物足りないような気がする。立ち尽くす朝賀の周りを生徒達が朝の気だるさを引き摺って、決して快活とは言えないスピードで歩いていく。朝賀は暫くそこに立ったまま、じっと考えていた。笑って去った彼女のこと、そして月森のことを。 朝のことを引き摺りながら、朝賀は研究室まで辿り着いていた。依然助手の身分である朝賀は、教授である津村の研究室にほとんど間借りしている状態であった。准教授にでもなれば、個別に研究室が宛がわれるが、朝賀は依然未来のない助手に留まり続けている。それもどうしたものだろうかと、考えながら机の上にあるノートパソコンを開いた。未完成の論文を仕上げて、学会に提出するぐらいのことはしても良いかもしれない。いや、するべきだろう。月森のあの若さとおそらくは未来への展望が彼に与える光に、朝賀は時々怖くなる。不思議にもなるが、怖くもなる。この人は自分のところには長くいないだろう。月森はおそらくそれを否定するだろうが、朝賀には分かっている。いるはずがないし、いてはいけないと思う。彼と自分では違いすぎる。耐え難いほどの越えられない壁をもって、二人の世界は別ったまま、決して交わることはないだろう。けれど出来るだけその時間を引き延ばすことならば、出来るのではないだろうか。あがく自分を笑いながら、何処か褒めてやりたい気もする。こんな風に前向きに考えることができるようになったのは、きっと月森のおかげなのだろうと思いながら。朝賀自身も未来への展望を、失ったりしない限りは、月森の傍にいられる時間を引き延ばすことは出来るだろう。そう考えて朝賀は、普段の雑務の隙間を縫って、論文執筆を続けている。昔、もう死ぬつもりだからこんなもの書いても仕方がないと、思った自分に反抗して。准教授になって、一体何が変わるのか分からない。尤もなれるかどうかも分からない。けれど朝賀は今日も、一度は自らの手で断ち切ろうとした未来のことを信じて、それを形にしようとしている。自分でも不思議なことだが。 「朝賀くん」 後ろから呼ばれて、朝賀は飛び上るほど吃驚した。慌てて振り向くと、辛気臭そうな表情をした教授と目が合って、朝賀は椅子を煩く引きながら立ち上がった。 「お、おはようございます」 挨拶をしながら頭を下げる。何秒も間があって、津村は「おぉ」とだけ短く返事をした。顔を上げると津村はそこで、意外そうな表情を浮かべている。何だろうか、考えたが分からない。何か不味い事でもしたのだろうか、朝賀が謝ろうと一歩前に出た時、津村はふっと視線を逸らした。 「散髪に行ったのかい」 「え?あ」 一瞬津村が何を言っているのか、全く分からなかった。しかしその言葉で、朝賀は前髪を月森に切られたことを不意に思い出した。さっきまでそのことばかり考えていたのに、全く頭にそれが浮かんでいなかったのだから不思議である。津村が意外そうな表情で、自分のことをまじまじと見ていたのはそのためだったのか。合点がいったが、前髪はどうしようもなく短いままだ。 「良いじゃないか、そのほうが爽やかで」 「え?」 「だから切れと言っていたのに、君は全然私の話を聞かないで・・・―――」 動く津村の唇を見ながら、朝賀はぼんやり考えていた。津村にそんなことを言われたのは初めてだったから、純粋に嬉しかった。気を抜くと泣いてしまうかもしれないと思って、小声でお礼を言いながら視線を逸らした。そっちのほうが良いと言って笑った女子生徒の顔が、脳裏に浮かんできて朝賀は居た堪れないような気持ちになった。月森に会いたかった。会って伝えたかった。月森が与えてくれるものは、ひとつひとつ奇跡みたいに、朝賀の胸の深いところに降り積もっていく。どうしてなのか分からない。これが彼の才能なのだろう。津村は朝賀に小言を言うのを止めて、今日のスケジュールを確認している。それに付き合っているふりをしながら、今日別れたばかりの彼に、いつまた会えるのだろうかと、朝賀はそればかり考えていた。 今すぐにでもメールや電話をしたい気持ちだったが、どういう風に伝えたら良いのか、全く見当がつかないので結局朝賀は何もできないでいた。雑務に追われていると簡単に時間が過ぎ、面白いほど外の空気は変わっていく。窓はあるが、滅多に開けない薄暗い研究室のさらに隅で、朝賀はひとりでパソコンに向かっていた。夕方からは煩雑だった仕事も落ち着き、自分の時間が持てそうだった。今までならぼんやりしていることも苦痛だったが、今思えばなんと無駄な時間を過ごしてきてしまったのだろうかと思う。考えながら本棚に並んだ中から、先刻買ったばかりで読み進め中の本を取出しぱらぱらと捲る。その時、背中の向こうで研究室の扉が開く音がした。大体研究室を訪ねてくる学生は、扉を叩いて応答を待つのが常だから、勝手に扉を開けるのは津村くらいなものだった。ここを本拠地にしている朝賀でさえ、中に津村がいる可能性を考えて、入室の際は扉を叩いて確かめるほどだ。だからその時、相手は津村だと朝賀は確信して振り返った。津村は講義に出かけたはずだが、何か忘れ物でもして戻ってきたのだろう。そういうことは決して少なくはなかった。けれどそこから顔を覗かせたのは津村ではなかった。 「・・・月森くん」 「朝ちゃんひとり?」 頷くと彼は無邪気な笑顔を見せて、するりと扉から部屋に入り込んできた。月森が扉を閉めて、研究室は薄暗くなったはずなのに、朝賀にはそれが分からなかった。月森はいつも飄々と明るい。まるでその明るさで、周りのものを発光させているかのようだ。理解できない眩しさに目眩を起こしそうになりながら、朝賀は持っていた本を本棚に戻した。会いたいと思っていた月森が、朝賀の思考を読み取ったみたいに会いに来てくれたことへの嬉しさと、何かとてつもなく悪いことをしているかのような背徳感がそこにあった。朝賀は意図的に月森から視線を反らして、曇った窓の外でも見るふりをした。 「どう、したの、月森くん。何か用事?」 「いや、あのさ、朝ちゃん・・・その、髪切ったこと、怒ってたじゃん」 「・・・別に怒っては・・・」 月森がそれを気にしていたとは意外だった。はっとして、朝賀は反らしたはずの視線を、月森まで戻してしまっていた。そこで月森はバツの悪そうな表情で俯いていて、視線は合わなかった。何故彼がそんな表情をしているのか理解できなかった。 「ごめんね、俺はそのほうが良いと思って、勝手に切ったんだけど、朝ちゃんの気持ちは無視しちゃってたっていうか・・・」 「いや、僕もこのほうが良いと思う!」 余りにも大きい声が出て、朝賀は自分でも吃驚した。勿論月森も面食らったような表情をしている。 「あ、いや、その・・・朝から、女の子だとか、後は津村先生にも、このほうが良いって言われて・・・」 「・・・」 「だから・・・その」 不意に月森が黙って、朝賀は慌てて言葉を探した。言われて嬉しかった。暫くそんな気持ちにはなっていなかったように思う。それは月森のおかげで、だから月森がそんな顔をする必要はないのだと、言いたかったが上手く言葉にならなかった。床を忙しなく這っていた視線が不意に傍に寄る影を捉えて、朝賀はふと顔を上げた。思ったより近くに月森がいたので、吃驚して体を退けようとしたが、古い椅子に腰が当たって無駄に音を出しただけだった。月森はそこで、もうバツの悪そうな表情などしていなかった。つるりとした茶色い瞳で、朝賀の中に何かを探すように真摯にこちらを覗き込んでくる。 「どう、したの、月森くん」 「うん、やっぱり切らなきゃ良かった」 「・・・え?」 月森は無表情のまま、朝賀の短くなった前髪を指先で摘まんだ。先刻の言葉が、上手く月森に伝わっていないのか、月森がそれを理解出来ていないのか、それとも朝賀には想像できない他の理由があるのか。一体どれが原因なのか分からないが、月森は何かを勘違いしている。しかし余りに近距離で月森がこちらを覗き込んでくるので、それに何も言えずに黙ってしまう。 「朝ちゃんが可愛いの、俺だけが知ってれば良かったのに」 「・・・つき、もり、くん」 「失敗したな、切らなきゃ良かった」 「・・・―――」 ふっと緊張を解くように月森は笑って、朝賀はやはりそれに何も言うことが出来なかった。いつもの研究室がその時だけはまるで異空間のように感じられ、足元が覚束ないような感覚すらあった。この人の降らせる奇跡は、こんなにもあまりにもありふれているのに、どうしてこんなにかけがえのないものなのだろうと、朝賀は思う。月森と一緒にいると、何度でも思う。時々冷たく重い気持ちとひとりで向き合って、とんでもなく空しくなったり切なくなったりする。けれどこうして現実の月森と向かい合っていると、そんなことは朝賀の妄想であり、取り越し苦労であることは、一目瞭然だったりするのだ。心の何処かでは分かっているのだけれど、中々納得出来ないのは朝賀の悪い癖みたいなもので、月森はそれを知っているのだろうけれど止めさせようとはしない。月森は自由で、だからこそ朝賀にその不自由を押し付けたりはしないのだ。それが嬉しくもあり、何処か寂しくもある。何と答えれば良いのか分からず、俯く朝賀の顔を上げさせて、月森は酷く自然な所作でその唇にキスを落とした。まだ自分の部屋にふたりしているような、妙な錯覚に不意に陥る。 「だ、駄目だ、月森くん、誰が見てるか分からないんだから」 「良いよ、そんなの。津村に褒められてへらへらしてる朝ちゃんが悪いよ」 「へ、へらへらなんて・・・」 してないと唇を曲げると、月森は快活に笑い声を上げた。 fin.

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