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深い森を急ぐ Ⅰ
朝賀が自分のことをどう思っているか、なんてそれまで考えてみたことがなかった。自分でもなんて恐ろしいことなのだろうと思うけれど、そんな単純な、いや単純だからこそ、一番考えなければならない大切だろうことを、月森は一度も考えたことがなかった。
「なぁ心知 、お前ってさ」
「ん?」
「朝賀のこと好きだよな」
大学は昼からのほうが賑わっている。午前の授業はさぼりがちの生徒も、日が昇ってくると活動的になるらしい。その理屈はなんとなく月森にも理解できた。月森だって深夜バイトの翌日、1限から講義なんかが入っていると、それだけでうんざりする。そしてうんざりしながら、行かないことを決意したりする。津村の講義は午前中に多かった。それに助手である朝賀がくっついてくることは、決して多いわけではなかったが、広い大学の中で無遠慮に顔を見つめていられる貴重な時間だったので、月森はどんなに朝が辛くても津村の講義だけは出席率が高い。そんなことを見越して言われたのか、それとも津村の傍で困ったような表情を浮かべている朝賀を、熱心に見つめていたことが露見したのか、その時隣に座っていた伊原がまるで独り言のように呟いたそれに、思わず固まってしまった。ふたりのことは内緒にしておこうと言ったのは朝賀だった。月森はどちらでも良かったが、朝賀には教員もどきとしての立場もあるだろう。月森は聞き分けのいい子でその時それに同意したのではなく、そう切り出した朝賀が神妙に泣きそうな表情を浮かべながら、懺悔でもするかのようにそれを吐露したからである。そんな風に切羽詰らなくても大丈夫だと、薄暗い部屋で抱いた体は震えていた。朝賀は驚くほど色んな事象に脅かされながら生きている。俯いて、まるで顔を上げるのが罪だと言わんばかりに。
「な、んで?」
「あれ、嫌いなの、しょっちゅうお前研究室行ってるだろ」
伊原は目線を教壇に投げかけたまま、隣にいる月森にだけ聞こえるような声で言う。それを聞きながら月森はほっとした。伊原の言っている意味は、月森が考えているそれとは異なっていることが明らかだったからだ。此方を見ようともしない伊原にならって月森は前を向いた。檀上で勇ましく喋っている津村ではなく、端のほうで申し訳なさそうにパイプ椅子に座って熱心にメモを取っている朝賀を視界の中心に据える。伊原は月森の数多くいる友人の中でも「何を考えているのか分からない」と形容されることが多い部類だ。長身で涼しげなマスクに誑かされて寄ってくる女の子は少なくなく、伊原はその誰とでも平等に、という言い方は可笑しいのかもしれないが、少なくとも月森にはそう思えた、付き合っては別れて、を繰り返していた。余りにもあっさりとしたプレイボーイぶりに、周囲の人間は閉口したが、いつでも最後は伊原のほうがフラれるという事実を知っているものは、毎回可哀想にねと彼女不在の数日間、伊原に向かって呟くことを忘れなかった。その伊原がそんなことを、とんでもなく的を射たことを言ってきたので、月森は静かに慌てたのだった。伊原ならあるいは、と思ってしまった。あんな風に、まるで痛みを堪えるみたいに月森に黙っていることを承諾させた朝賀を、出来ることなら裏切りたくはなかった。しかし伊原の言っている意味合いは、自分のそれと微妙にニュアンスの違うことであるということに月森は気付いたが、それでも何となくその話題を引き摺るのは気が引けた。
「あぁ、そういう意味。まぁ好きっちゃ好き、かな。でも基本用事ある時しか行ってないけど」
少しだけ嘘を吐いた。
「あいつ地味だけど、なんか生徒には人気あるよな」
「・・・あ、そなの?へー・・・」
歳が自分たちに比較的近いこともあってか、何かと朝賀が懐かれているのは知っていた。朝賀と仲が良いと公言する生徒も少なくない。そんなことは付き合う前から分かっていた。というか、月森自身が朝賀に懐いていた生徒のひとりであったからだ。学内で朝賀を見かける時は、大体2、3人の生徒に囲まれて、何処か困ったような表情を浮かべている。おそらく得意ではないのだろう生徒に対して、朝賀が対応を困っているのが遠目からでも伺えた。付き合っているのだと、朝賀は自分の恋人なのだと宣言したらあんな風に容易には、きっと生徒は群がらないかもしれない。一抹の不安と都合の良い妄想を抱きながら、月森はそれを苦い思いで見ている。朝賀がその輪の中で、照れくさそうに笑っていたら尚更のこと。学内での朝賀はそんな感じだったが、津村の研究室には、津村を煙たがって生徒は寄って来ない。だから月森は何かと用事を見繕っては研究室に足を運ぶようになった。時折津村に出くわして、聞きたくもない講義の続きみたいなことがはじまったりもしたが、津村は忙しいのか余り研究室にはおらず、大体は密室を楽しむことが出来た。そういえば、付き合ってからその頻度は増えたような気がする。尤も月森はまだ足りないくらいだと思っていたのだが、目に見えて変化しているようでは、少し控えたほうが無難かもしれない、そんなことをひとりで考えている時だった。また隣の伊原が口を割った。
「朝賀はお前のこと、嫌いなんじゃないの」
「・・・え?」
「朝賀みたいな奴は、お前みたいなの嫌いだろ。なんていうか、波長が合わないっていうか」
そんなこと考えてみたこともなかったので、月森は衝撃を隠すことが出来ずに、ぱちくりと瞬きをし、どんなに陰険な噂で満ちようとも、決して自分のスタンスを曲げない伊原の涼しげな横顔を凝視した。ちなみに伊原がフラれる理由はやはり「何を考えているのか分からない」という一点に尽きるらしい。確かに、と月森は内心思いながら視線をぎこちなく戻した。そこで朝賀は相変わらず熱心にメモ帳を眺めていたが、それはもう月森を幸せにしてくれる光景ではなくなっていた。朝賀が自分のことをどう思っているかなんて、考えたことがなかったことに愕然としていた。そんな単純なことを、今まで振り返らず随分長い距離を全力疾走してしまったものだ。ふっと溜め息を吐くと隣の伊原がちらりとこちらに視線を寄越したのが分かった。慰めの言葉の一つでも選んでいるのかと思いながら、敢えてそちらは見ないようにした。
「お前の明るさって長所なんだろうけど、朝賀には鬱陶しいだけだと思う」
「・・・あ、そ」
「俺も時々、お前のこと鬱陶しいしさ」
「・・・あ・・・そ」
実に快活に言ってくれるじゃないかと、涼しい顔をして前を向いている伊原の横顔を睨む。確かに今月森は伊原と机を隣にしてはいるが、そんなに仲が良いわけではなかった。この後も一緒にご飯を食べるのだろうが、きっとその頃には他の講義に出ていた人、昼からやって来た人、そういう人の波に飲まれて同じ場所の端っこと端っこに座っているに違いない。伊原とはそういう関係だった。月森にとってはそういう友達が少なくない。月森の場合、友達と言う名前の絶対数が多いせいで、こういう事態に陥る。伊原も友達のようで、そうではないようで、けれど見かければ挨拶をするし、隣に座るし、一緒にご飯だって食べるのだ。それの何処が友達ではないのかと月森が言うと、伊原は鬱陶しそうに前髪を払うふりをするだけだろう。
「暗くなるなよ、冗談」
「・・・お前の、分かり辛いよ」
「悪い、俺冗談とか苦手だからさ」
にこりともせずに、伊原は淡々と言い放った。だから分からないのだと、言ってもこの男には到底通じそうはない。諦めて月森は檀上の朝賀に目を戻した。相変わらず熱心な助手ぶりである。もう少し前の、月森が目で追いかけている段階にあった朝賀は、毎日俯いてやる気もなさそうだった。そういうアウトローな感じと、本来持っているものであろう地味で真面目な雰囲気がマッチせずに、朝賀を妙な空気感で包んでいた。それが今は薄れている。未だに地味で真面目そうな雰囲気はあるし、俯いて歩いていることに変わりはないけれど、何だか朝賀は一生懸命になっているように見える。何に?月森はその答えを知っている。おそらく月森だけが知っている。朝賀は生きることに一生懸命になっている。だからそれを諦めていたころとは、雰囲気が随分違うのだ。そうしてよりとっつき易くなった朝賀の周りには人が増える。月森はそれを避けて研究室へ行く。悪循環だ、月森は眉間に皺を寄せた。津村が大声で話している内容など、まるで頭に入ってこない。
「なぁ、朝ちゃんって、俺のこと苦手かな」
「苦手そう、ではある。朝賀みたいなタイプって、お前みたいなのに妙な幻想抱いてるっていうか、変に敵対視したり屈折してたりするからさ」
「・・・そうかな。朝ちゃんは・・・そんな感じじゃないと思うけど」
「だから推測だって言ってるだろ。お前だって言い切れるほど朝賀のこと知らないだろ」
「・・・まぁね」
伊原にとってみれば、月森も妙に懐いている生徒の一人に違いないのだろう。それで構わないのだが、そういう言い方をされると反発したいような気持になって、慌てて月森は前を向いた。気にはなったが、この話はこれで一旦終止符を打っておいたほうが得策だ。それに朝賀の気持ちなど、月森には幾らでも知るすべがある。考えながらふと思った。朝賀が何を思っているかなんて、月森は気にしたこともなかった。朝賀は決して拒まないから、きっと自分と同じ気持ちだろうとは思っていたが、勿論それを確かめたことはなかった。ふと周りの音が止まって、月森はそこに取り残されたような気持になった。もしかしたら自分は、朝賀を何処か遠くにおいて、自分一人で楽しんでいたのかもしれない。伊原が妙な確信とともに言うみたいに、本当は朝賀は自分のことを―――。
「心知」
呼ばれてハッと気付いた。周りはいつの間にか騒がしくなり、あちこちで生徒が立ち上がりながら喋っている。隣の伊原も開いていた参考書やルーズリーフの切れ端を纏め、立ち上がっている。慌てて月森は机の上に広げた私物を適当に纏め、乱暴に鞄の中に押しやった。
「学食行くんだろ」
「あぁ、うん」
伊原の声に反射的に返事をしながら、月森は立ち上がって何気なく教壇に目をやった。そこにはもう津村の姿も朝賀の姿もなかった。いや、なくてよかった。自分が余計なことを考えれば考えるほど、良くない方向へ行ってしまう傾向があるのは、月森も自分のことであるがゆえに良く分かっていた。自分は考えるのが得意ではない。考えたり憶測したり変な気を回しているより、正面突破で本人に問いただした方がずっと早い。それに変な誤解もなくていい。伊原が先を歩くのに従うみたいに、それでも中々悪い妄想から逃れられずに月森はらしくない溜め息を吐きながら、講義室を後にした。
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