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深い森を急ぐ Ⅱ

そういえば、聞いたことがなかった。朝賀に正面切って好きだと言われたこともなかった。はじめが「抱いてくれ」だったから、そんな工程何処かすっ飛ばしていた。考えながら月森は、痛んだこめかみを少しは緩和するかと思って指で押した。少しも良くはならなかった。キスしようとするたびに、朝賀が震えて体を固くすることや、いざって時にアルコールを飲んで待ち構えていることや、考えてみれば他にも月森に不利な材料は沢山出てきて、ひとりで頭を抱える。自分は沢山言ったけれど、朝賀はそれに頬を赤くして俯くだけだ。そういう奥ゆかしいところが嫌いなわけではないけど、伊原の憶測にそれでは勝てる気がしない。目の前を涼しい顔をして悠然と歩く伊原の背中を見ながら、月森はどんどん恨めしい気持ちにならざるを得なかった。 (・・・次会う時、絶対聞こう・・・あぁ、でも・・・それでほんとは苦手とか言われたら、俺は如何したら・・・―――) 頭を掻き毟りたくなるような衝動を抑え込んで、何とか歩を前に進めていると、前を見ていなかったのが悪いのだろうが、月森は不意にどんっと誰かに頭からぶつかってしまった。慌てて体制を整えて、前方の何かを確かめる前に謝罪が口を突いて出た。 「ごめ・・・っ」 伊原が振り返る。ぶつかったのは伊原の背中だった。彼の方は何とも思っていない表情で、無言のままついついと指を指す。 「え・・・?」 「朝賀」 渡り廊下の向こうから、3人の女子大生に囲まれた朝賀がこちらに歩いてきているのが目に入った。女子大生はまだ20歳にも満たないような若々しさで、そのうちひとりは朝賀の腕を掴んでおり、いかにも親しげな様子だったが、朝賀の頬はどう見ても引き攣っていた。 「俺から見たら、お前ってあんな感じ」 「・・・う、ウソだろ、俺あそこまで酷くは・・・」 「そうか、まぁ、お前がそう思うんだったらそうなんだろうな」 「・・・何だよ、それ。反論ぐらいさせてよ」 月森が唇を尖らせても、伊原はまるっきりいつもの無表情で、すたすたと歩きはじめた。何となく今朝賀と顔を合わせるのは後ろめたいような気分で、その伊原の背中に隠れるように月森は身を縮こまらせて歩いた。次会った時、などと悠長なことは言っていられない、すぐさま確かめたかったが、それはここでは行えない。放課後、隙を見て研究室を訪ねて、と考えを巡らせるが、先ほど研究室を訪問するのも控えたほうが良いかもしれないと思ったところだったことに気付いて、月森は自分自身に舌打ちをするしかなかった。会話の内容は分からないが、女子大生の声は酷く大きく、何やらとても楽しそうである。朝賀だって困ったようには見えるけれど、内心は意外にこの状況を楽しんでいるのかもしれない。それはそれで何となく、面白くない気もするけれど。一体如何だったら安心なのか自分でも分からなくて、月森は下唇を軽く噛んだ。 そしてまた不意に、下げたままの頭が目の前の何かにドンとぶつかった。 「いてっ・・・」 顔を上げる。またも伊原の背中だ。何故こう何度も道の真ん中でいきなり立ち止まるのか。もう謝罪の言葉は口から出そうになかった。伊原の背中越しに、大声に気付いたのか、朝賀が目を丸くしてこちらを見ているのと目が合う。思わず勢いよく反らしてしまった。 「おはようございます、朝賀せんせ」 いつもは挨拶なんかしないくせに、月森への当てつけなのか何なのか、伊原が自棄に丁寧に朝賀に頭を下げる。朝賀はそれを見ながらやはり困ったように眉尻を下げて、もう一度月森の方にちらりと視線をやって、月森が相変わらず明後日の方角に目をやっているのを確認してから、唇の端を不器用に上げた。 「おはよう・・・伊原くん、と、月森くん」 朝賀が一瞬躊躇ったのが、何だかちょっと寂しかった。 「せんせ、これからお食事ですか」 「あ、そう、なんだけど」 「俺、さっきの講義、聞いててちょっと分かんないとこあって、良かったら飯食いがてら教えてもらえません?」 「え・・・」 涼しい顔して伊原が突然そんなことを言ったので、反らした目ですら点になった。慌てて焦点を問題のふたりに当てる。朝賀は伊原の言葉に可哀想なくらい動揺していて、何だか見ていられなかった。流石伊原は切れるだけある。「講義のこと」といえば、朝賀は断り切れない。この後大した用事がないのは、両端にくっついている女の子を見れば明らかだから、その常套句も言わせないつもりなのだろう。何と言う酷いやり口なのかと、伊原のことは友達だったが、その一瞬酷く軽蔑しそうになってしまった。朝賀の両腕を女の子が引っ張る。彼女たちも「一緒にご飯」を目論んでいたのだろう。月森は少しだけ目眩がした。 「あー・・・そっか、あの、でも」 「ちょ、朝ちゃん、あたしらとご飯食べるって言ったじゃん」 「そうだよ、あたしらの約束が先だよ」 「あ、うん、そうだね、ええと」 「でも、分かんないところは早いところ処理しときたいんですよね、津村先生も積極的に質問に来いって言ってたし、でもあの人忙しいから掴まらないし、ね」 「それは、そうなんだけど・・・あっと」 黙ってやり過ごそうかと思っていたが、見ていられなかった。 「伊原!それなら俺が教えてやる!」 「え、お前寝てた・・・」 「寝てない!目を瞑って聞いてただけ!さっきのところは俺完璧に理解したから、ホラ!学食のAランチも奢ってやるから早く行こう!」 「お前何をムキになって・・・」 「なってない!行くぞ!」 まだ何か言いたそうな伊原を強引に引っ張って、渡り廊下を歩いていく。横を通り過ぎる一瞬、朝賀が何か言ったような気がしたが、月森は立ち止まってそれを聞き返している余裕はなかった。長身の伊原をずるずる引っ張って、周りを過ぎる生徒に何事かとじろじろ見られながらも、食堂まで辿り着いて、月森はほっと胸を撫で下ろした。あのけばけばしい女子生徒に囲まれて、朝賀がお昼を無事に終えられるのかどうか、そちらも心配だったが、この何考えているか分からぬ友達と一緒にするほうが、何となく不安だった。伊原がプレイボーイで通っていたって、そんなことは勿論、女の子相手だからと分かってはいるのだが。 「何なの、心知。お前、今日ちょっと可笑しい」 「・・・可笑しいのはお前だろ」 「俺は、いつものお前を再現しただけ」 「俺あんなんじゃないよ」 「あ、そ。俺から見たらあんなんだけど?」 言いながら口の端で笑って、伊原は迷いなくAランチの列に並びはじめる。奢ってなんかやるものかと心に誓って、月森はCランチの列に並んだ。 すぐさま確かめようと思ってはいたものの、伊原のことで酷く心労した月森は、授業が終わってどうこうするという気力がなくなっていた。いつもより重く感じる鞄を引き摺って、バイクの駐車場まで向かう。電話で済ますのは何となく嫌な気がするし、また明日にでも研究室を訪ねようと思いながら、人気のないそこを自分のバイクを目視で探しながら歩く。すると後ろから不意に声がした。 「月森くん!」 振り返るとそれが朝賀だったので吃驚した。思わず手に持っていたバイクの鍵を取り落しそうになって慌てる。朝賀は昼間見た時と同じ格好で、吃驚して反応できない月森にすたすたと歩み寄った。後ろめたいことなどないと言い切りたいのに、何となく顔が見辛い。 「ど、どうしたの、朝ちゃん・・・」 「あ、あの、今日、お昼会った時・・・なんか、変だったから」 「あれ、変?かな、変じゃないよ、ふつうだって」 唇の端だけで笑った伊原の顔が脳裏にちらつく。伊原だけなら兎も角、朝賀にまでそんなことを言われるとは思わなかった。言い訳をする声も意味なく裏返る。朝賀がすっと視線を下げた。何となく臓腑を冷たい手で撫でられるような、嫌な予感がした。 「ごめん・・・」 「な、んで、朝ちゃんが謝るの・・・?」 「だって、なんか、ごめん、気に障るようなことを、言ってしまってたら・・・」 そうして俯く彼のことを良く知っているような気がした。何だか久々に目の当たりにしたような気分だった。抱き締めたいと思ったけれど、人気がないといえども場所が場所だったので、その肩を抱くのは諦めた。疼く腕を無理矢理垂直に力を入れて抑えるようにして、月森は一歩後退して朝賀から距離を取った。どう考えてみても伊原が悪かった。あの男があんなことを、あんなどうでもいい、それこそ余計なことを言わなければ、しなければ、朝賀が心痛そうに眉間に皺を寄せることはなかったし、自分だって妙なことをぐるぐる日中考えて、脳をやつれさせることはなかった。なかったはずだ。月森は肩の力を抜くように、ふっと息を継いだ。するとそれに合わせて俯いたままだった朝賀の体がびくりと震えた。 「朝ちゃんは悪くないよ、俺がね、ちょっと色々、考えることがあって」 「・・・考えること?」 「あ、うん。たいした・・・」 大したことではないと言おうとして、唇の端が引き攣った。大したことではないのかと、もう一人の自分が内部から反論する。そうだった。伊原の言い分は兎も角、事実としてそれはあるのだ。見ないふりは出来ない。 「良かった、月森くんに嫌われたんじゃないかって、変なこと色々、考えちゃった」 「・・・ごめん」 「ううん、だって僕が言ったんだもんね、内緒にしてくれって、やだな、自分の言ったことでこんなに不安になるなんて」 「・・・」 「追いかけてきてごめんね、帰るとこだったんでしょ。気を付けてね」 そうやって手を振る、朝賀は妙に饒舌だった。頬を赤くして、月森の視線からぎりぎりのところ上手く避けて、にこりと笑う。きっと研究室から月森の姿が見えて、追いかけてきたのだろう。そういえば息も上がっていた。走って来たのか。彼が自分を呼び止めた時の様相を思い返しながら、月森は酷く冷静でいられた。日中色々と考えてしまったのは月森もそうだし、朝賀もそうなのだろう。あの時、一瞬横を過ぎる時、朝賀が何と言ったのか、何となく聞いておけば良かったと思った。腕から力をふっと抜くと、取ったはずの距離を詰めて、月森は朝賀をぎゅっと抱き締めていた。迷わなくてもいいと思った。 「つ、つきもりくん!」 「ごめんね、朝ちゃん」 「や、あの・・・えっと・・・」 「あのね、俺、朝ちゃんのこと好きだよ」 「え・・・?」 腕の中で朝賀の体が震える。 「凄ぇ好き、ねぇ、朝ちゃんは、俺のことどう思ってんの・・・?」 「・・・―――」 真っ赤になった耳に、本当は答えなど分かっている。でも君の口から聞きたいのだと囁いたら、腕の中の体はまた一段と熱を帯びた。 fin.

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