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潮騒までどれくらい
暑い日が続いていた。いつものように台風が幾つか過ぎた後、思い出したように太陽がギラギラとその勢力を強め始めて、朝からじんわりと汗をかくような陽気がここ何日か続いている。朝賀は夏が苦手だった。その開放的な雰囲気も、暑さに顔を顰めながらも何かを期待している人々の隠し切れない活気も。そういう夏が持っているポジティブなもの全てが朝賀の苦手なものと直結していて、毎年この季節が来るとより一層気が滅入ってくる。今日も暑い、朝起きて部屋の中のムッとした空気を外に逃がすために窓を開けると、そこから部屋の中とほとんど同じくらいの生ぬるい風が入り込んできて、朝賀は思わず眉を潜めた。
「朝ちゃん、おはよ」
後ろから急に声をかけられて、朝賀の背中が無意識に跳ねる。この部屋に長い間ひとりでいたから、まだ部屋の中に自分以外の誰かいるというのは落ち着かない。振り返ろうとしたところを、月森が後ろから腕を回してきたので、図らずとも吐息がかかりそうな近距離で視線が交わる。
「・・・びっくりした」
月森が笑ってそう言って、何でもないことのように朝賀の鼻の頭に触れるだけのキスをする。朝賀は息を飲んだだけで何も言えなくなった。時々自分の部屋にいるこの若い男は、一体誰なのか分からなくなる。朝賀の日常に月森はいつまで経っても馴染まなくて、いつまで経っても余所者みたいだ。思いながら口を噤む。月森がどう解釈するかはなんとなく想像がつくが、流石に本人を目の前にしてそんなことは言えやしない。こんなに暑くても月森は朝賀に纏わりついては、暇を見つけてくっ付くことを止めない。触れられているところからじわっと月森の人肌の体温が移ってきて、朝賀はそれを何と思ったらいいのか、どうしたらいいのか分からない。分からないと戸惑っている間に、朝賀の皮膚にどんどん月森の健康な体温が侵食してくる。朝賀は開けたばかりの窓を閉めた。まだ起きたばかりだが、これは冷房をつけたほうが良さそうだ。
「今日も暑いねー!」
「・・・うん」
それが分かったのかどうなのか、月森はするりと朝賀を離して窓のほうに向かって行った。ほんの少しだけ、朝賀は自分が平穏を取り戻したのが分かった。しかし月森がまたいつ気紛れを起こして引っ付いてくるか分からないので、朝賀は冷房のスイッチをこっそり入れた。夏のいいところは、夏になると大学が休みになるところだ。それくらいしか思いつかない。全く出勤しなくていいわけではないが、仕事の一番大本である講義がなくなるので、出勤日数は格段に減る。その分研究室で陰湿な津村と向き合う時間は増えるので、朝賀にとっては憂鬱の種も増えることになり、良いことばかりではないのだが。
「朝ちゃん今日も学校?」
「・・・あ、いや今日はたぶん・・・」
大学生の夏休みは長い。丸々2ヶ月ほどある。それは月森も例外ではなく、8月がはじまるとほぼ同時に朝賀の家を訪ねてきて、それから何故か帰る気配がない。授業のない月森はというとほとんど毎日のようにバイトに出かけているが、何故か朝賀の家にただいまと言って帰ってくる。いつか言わなければと思いながら、月森にきつく抱き締められると何も言えなくなって、朝賀は声を喉に詰まらせ続けている。その腕を振りほどく勇気など、いつまで経っても持てそうにない。そんな怠惰なことも夏のせいなのだろうか、朝賀は目を細めてひとりでそんなことを考える。全部夏のせいにしてしまえば考えることが減って楽だった。
「ほんとに?バイト、入れなきゃよかった。そしたら一緒にいられたのに」
「・・・―――」
熱がこもる体内。全く涼しくならない部屋の中。先ほどつけたばかりの冷房の稼働音は聞こえているが、それはまだ朝賀のところまで届いていないらしい。月森がここにいる限り、朝賀の居場所はどこにもない。朝賀は決して広くはないリビングを見渡す。夏がはじまるまで殺風景だったガラスのテーブルの上に、月森が持ってきたらしい漫画の本やレジャー雑誌が積み上げられている。昨日使ったコップはふたつ、シンクに置いたままになっている。月森が我が物顔で着ているTシャツは、朝賀が去年買ったものだった。そうやって改めて部屋の中を見渡して、ひとつひとつ異物を確認すると目が眩みそうだった。月森がただ単にただいまと言ってここに帰ってきているわけでないことを、ゆっくり朝賀は悟る。
「朝ちゃん、俺ね、来週からちょっと旅行行くことになってて」
「・・・え?」
不意に月森の声がして、朝賀は思考を中断させざるを得なかった。
「友達と、なんか1週間くらい?海の家手伝いがてらだから全くの遊びじゃないんだけど」
「へぇ・・・」
「だから今週は朝ちゃんと一緒にいたかったなぁ!」
そうして月森は無邪気に笑う。こういう時不意に朝賀は、月森がやはり全く自分とは交わる可能性のない他人であると感じる。月森の発する単語ひとつひとつが、朝賀の人生において無関係だったからだ。そしておそらく今後も関係しないだろうことは明確だ。眩しい月森の眩しく楽しみに満ちた全てのことに触れる度に、寂しい気もするけれど何故だか朝賀は安心することも多かったように思う。幾ら自分と一緒にいても、月森は月森のままだからだろうか。月森が変わらないでいてくれることが、朝賀にとっては大切なことだった。そういう単純に眩しくて生き生きとしていて健やかである月森のことをどこか疎ましく思いながら、朝賀は一番に愛していたのだと思う。そういう自分は持って生まれなかったものを全て持って生きている月森のことを、自分とは違う種類の人間だと遠ざけながら羨ましく思うことにすっかり慣れてしまっていた。
「・・・そうなんだ、それは楽しみだね」
「嘘つき」
「・・・―――」
「そんなことひとつも思ってないくせに」
無邪気に笑う月森の目が、少しだけ細められて朝賀は背筋が寒くなった。明るく快活にできているはずの月森は、時々それらしくない顔をして、朝賀の中の後ろめたさや背徳を撫でるのだ。まるで全てを知っているかのような顔つき、月森には似合わないその影のある表情。それを見るたびに、朝賀は何故か自分が酷く悪いことをしているような気分になった。
「・・・嘘じゃないよ」
「朝ちゃん夏は苦手っぽいもんね、海とかレジャー施設とか、そういうのも好きじゃないんでしょ」
「それは・・・―――」
「いいんだよ、別にそんな嘘つかなくても。そんなことで今更嫌いになったりしないよ」
今更とはどういうことなのだろう。朝賀は見知った自分の部屋のなかで立ち竦んだまま、他には何もする術がなくてただぼんやり考えていた。ここには身を隠すところがひとつもない。いつの間にか前からここに住んでいたみたいな自然さで部屋の真ん中に鎮座する月森が、朝賀のシャツに簡単に腕を通して、朝賀はそれを許すしかない自分の甘えとか弱さとかそういうもの全てを受け入れる準備がまだできない。こんなことを考えている間は、準備などいつまで経っても出来やしないことも分かっている。
「そうだ、朝ちゃんも海行こうよ」
「・・・え?」
突飛な提案に、歪んだ思考が回転するのを止める。月森はいつの間にか立ち上がっている。そしてふらりとこちらに近づいてきて、朝賀は何か良くない気配を感じとり、思わず足をずずっと後退させた。月森はそれが分かっているのかいないのか、いつもの笑みを張り付けて朝賀の警戒などまるで無関係みたいにゆるりと朝賀の首に腕を回す。月森の肌の色はちゃんと外に出ていて、ちゃんと生きている色をしている。朝賀は横目でそれを捉えて、おそらく本質ではないことを考えていた。
「一緒にいかない?楽しいよ、きっと。別に泳がなくてもいいしさ」
そうして月森がゆっくりと目を伏せる。何を見ているのか途端に分からなくなる。朝賀はその視線を追いかけながら、月森の言葉を反芻していた。
「いいよ、僕は・・・。それに月森くんだって友達と一緒に行ったほうが・・・楽しいよ」
俯いたままふっと月森が笑う。朝賀はまた背筋が寒くなった気がした。
「それは俺が決めることだ」
「・・・―――」
「・・・朝ちゃん、俺はね、朝ちゃんと何でも一緒にしたいよ。でも出来ないことも多いから・・・―――」
言葉を切って月森がゆっくり顔を上げる。それが珍しく無表情に見えて、朝賀はどきりと心臓が跳ねるのを耳元で聞いていた。
「これでも我慢してるんだよ」
「・・・―――」
朝賀の首に回した手で、月森は実に自然な所作でするりとうなじを撫でる。それにどんな顔をすれば良いのか、朝賀は分からなくて思わず目を反らしていた。触られたところからまたじわりと熱が広がって涼しさが遠のいていく。彼の美しくて曇りのない快活な毎日の中に、ぽつんと落ちた黒点みたいに自分だけが異質な存在でいるように、朝賀の日常にとっては月森だけが馴染まないでいる。だから朝賀は月森の言うことの半分も理解できないし、きっと月森も同じなのだろう。だからこんな提案をしてくる、こんな提案ができる。こんなどうしようもない方法を安易に使ってまで。月森が朝賀の頬をそっと触って、首の角度が変えさせられる。反らしたはずの視線が意図をもって交わって、月森が唇を開いたから何か言うかなと思ったが、月森は何も言わなかった。言わない代わりに、酷く優しく朝賀の乾いた唇にキスを落とした。
「・・・卑怯だな、月森くん」
顔を伏せる朝賀のことを月森はもう止めなかったし、顔を上げさせることもしなかった。その朝賀の黒い髪を指先に絡めて、惚けたように生返事をしただけだった。
「海、行こうね」
そんな卑怯な方法で。
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