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潮騒が聞こえる

波がゆっくりと押して引いていく。薄暗がりの中で、海の表面の凹凸だけが黒々と浮かび上がっているように見えた。昼間の活気は影を潜めて、まるで別の場所みたいにひっそりとただそこにある。そうは言っても昼間の活気は時々ニュースで見る程度で、肌で感じたことは一度もないのだが。だからあれもここではないどこかの知らない話みたいに思える。朝賀にとってはそれくらい、この季節のニュースは非現実的だった。夏だというのにどこか涼しいのは水辺だからだろうか。吹いてくる海風に髪が煽られるのを、朝賀は思わず左手で押さえた。塩を含んだ風は少し重たくて、その癖髪の毛の間にするりと入り込んでくる。海なんて酷く久しぶりに来た。最後に来たのがいつだったか思い出せないくらいには、久しぶりに来た。細かい砂に足が簡単にとられそうになるのを、転ばないように慎重にゆっくりと進む。サンダルなんて持っていない朝賀の足元は、いつものスニーカーだ。砂が隙間を狙って中に入ってくるのが、不思議とそんなに不快ではなかった。 「あさちゃーん!」 後ろから月森の声がして、朝賀ははっとして振り返った。暗がりの向こうからまず白いTシャツが見えて、やがてそれが月森の形になってこちらに向かって走ってくる。下が砂だというのを感じさせないくらい、月森の動きは軽快だった。朝賀はそれを見ながら、月森はこの砂の上を走ることなんてまるで苦にしていない、それはきっと砂の上を走る機会が自分より遥かに多いからだ、とかなんとか、また違うことを考えてしまっていた。月森は朝賀の側まで走ってくると、膝に両手を置いて肩で大きく何度か息を吐いた。月森を待つ間、朝賀としては少し歩いたつもりだったが、気付かないうちに結構長い距離を来てしまったらしい。駐車場にバイクを止めるために一度戻った月森を置いてきてしまったことを、朝賀はその時になってはじめて気付いていた。ややあって月森がゆっくり顔を上げる。その額にわずかに汗が滲んでいて、朝賀はどきりとした。 「朝ちゃん・・・ひとりで行かないでよ」 「・・・ごめん」 まだ肩で息をしながら月森が言う。そんなに急いで来なくても良かったのに、と思いながら朝賀はふと、月森に半ば強制的に連れて来られたはずのこの状況を楽しんでいる自分を見つけて、何故だか酷く恥ずかしく思った。月森がそのことに気付いていないのが、せめてもの救いだった。月森からゆっくり視線を外す。やはり海は静かに凪いでいる。空との境界も暗くて曖昧になっていた。 「もう・・・はい」 一度月森が子どものように唇を尖らせて不服そうにした後、いつものようににっこり笑って、こちらに手を伸ばしてくる。朝賀はそれをぼんやり見やって、もう一度月森の顔に視線を戻した。月森の真意が読めなかった。一体この手は何だというのか。ただそれを見ているだけの無防備な朝賀の手を、痺れを切らして月森が握る。すると状況が理解できたのか、ふっと朝賀の頬に赤がさした。 「つきもり、くん!」 「大丈夫、暗いし見えないよ」 「そう・・・いうことじゃない」 「じゃあどういうこと?デートなんだか手くらい繋いだっていいでしょ」 無邪気に月森が笑って、朝賀は抗議の言葉を飲み込む。デートだなんて可笑しな響きだ、と一瞬思った。思わざるを得なかった。しかしそんなことを言っては、月森がまた可笑しなことを言い出しそうな気がして、朝賀は言うに言えなかった。黙った朝賀を見て満足したのか、月森がゆっくり歩きはじめる。朝賀も引っ張られるようにして、仕方なくそれに続いた。繋いだ手がふたりの間でゆらゆら揺れる。薄暗がりの中、吹いてくる風は涼しいのに繋いだ手が酷く熱く感じた。 「夜の海ってなんかいいね、俺はじめて来た!」 まるでそんなこと終わったことみたいに、月森が快活に笑って言う。朝賀は繋いだ手が気になって仕方がない。全く決着も納得もしていない。それに生返事をしながら、朝賀はぼんやり月森でもはじめてのことはあるのだと考えていた。一週間旅行に行くと言って、月森は本当に朝賀の部屋から姿を消した。日常が戻ってきたことをはじめの2日は喜んだ朝賀だったが3日目には月森の姿をいないはずの部屋の中で無意識に探している自分に気付き、愕然とした。5日目で声が聞きたくなって電話すると月森はサークルの仲間と飲み会の最中だったようで、電話越しの楽しそうな様子に声を聞く前より胸を詰まらされて朝賀は焦った。そしてぴったり一週間後、月森は自分の家ではなく朝賀の家にただいまと帰ってきた。当初はそれを咎める予定だったが、健康的に焼けた月森の変わらぬ笑顔を見ると、朝賀は胸につっかえていたものが全部取れる思いがして、おかえりも言わずにきつく抱き締めていた。あんなにも素直な気持ちで月森の前に立つことが出来たのは久しぶりだったように思う。今思い出してもよく素面であんなことができたものである。月森の驚いた顔が頭の隅を過る。 「夜、きれーだね!静かだし」 少し先を歩く月森が、振り返って朝賀の様子を窺うようにして笑う。朝賀もそれにぎこちなく笑い返した。たった一週間でこんな風になる予定ではなかった。そもそも朝賀は月森とのこの奇妙な関係が長続きするとは思っていない。まだ若い月森には、これから先数えきれないくらい沢山の選択肢がきっと待っている。そしてその先にはきっと輝かしい未来が待っている。月森は今から幾らでも創造できる、その術を余すことなく持っている。だが自分はそうではない。勿論朝賀は気付いているし、分かっている。その時が来たら、自分はどうするのだろうと朝賀は思った。本当にもう会えなくなる日だっていつかくるのだ、その時きちんと大人のふりをして、見送ってやれる自信がなかった。朝賀は月森が帰ってきたことに安堵しながら、一方でどこかもう取り返しがつかなくなっている自分を自覚するしかなかった。ゆらゆら手が揺れている。いつまでもこんな恋人ごっこは続かない。願っても思っても、きっと月森が帰ってこない日が来るだろう。 「朝ちゃん?どうしたの?」 「・・・え?」 前を軽快に歩いていた月森が急に立ち止まって、朝賀も慌てて足を止めた。月森の話に生返事をしていたのが分かったのだろうか。 「ぼーっとしてる」 「・・・ごめん、ちょっと・・・違うこと考えた」 「ふーん、なんだよー違うことって」 「ん、何でもない、ごめん」 そう?と月森が言いながら笑った。今からこんなことを考えても仕方ないことくらい分かっているけれど、考えずにはいられない。けれど考えていることは月森に悟られないようにしなければ、と思った。月森がそれに首を振るのは何となく分かっていた。分かっていたから余計にそんなことを彼にさせてはいけないと思った。それは朝賀が物分かりの良い大人で居たかったからかもしれない。そのためのエゴでも何でも構わないと思っていた。少なくともその時はそう思っていた。 「海、行きたいって言ってたじゃん。でも朝ちゃん昼間のさ、ああいう雰囲気って絶対嫌いだと思ったから」 「・・・うん」 「夜だったら静かで人も少ないしいいかなって、俺だって考えているんだよ」 「・・・―――」 月森が笑うと目尻から何かきらきらしたものが零れた気がして、朝賀はその眩しさに夜だというのに目を細めるしかなかった。 「ありがとう、月森くん」 それに幾ら応えられているのか分からなくて、朝賀は目を伏せる。そもそもどうして月森はなんの取り柄もない自分の腕を引いて、こんなにも満足そうにしているのだろう、聞きたくてでも答えが怖くて聞けない。おそらく永遠に聞けないままだ。 「どういたしまして」 ふざけた様子で月森が言う。そしてまた前を向いて朝賀の手を引いて進んでいく。朝賀はその月森の短い髪の毛が時々風に煽られるのを月森の歩幅に合わせて歩きながらぼんやり見ていた。真意なんて、このままずっと分からなくても構わない。いつか離さなくてはならないかもしれないが今繋いでいることは、夢や幻なんかではないのだ。だって繋いだところからこんなに熱が伝わる、それに頬を撫でる風は塩気を含んでいるし、外気はぼんやりと昼間の暑さを残している。五感で感じるすべてのことが、きっと夢や幻なんかではないのだろう。細かい砂を踏みしめながら、朝賀は小さく呟いた。 「ありがとう、月森くん」 前方で月森が振り返る気配がする。

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