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潮騒はまだ遠い

大学生の夏休みは長い。はじめのころは怠惰に任せて冷房の利いた部屋でごろごろしているのだが、そんなことは3日で飽き、すっかり体力を持て余してしまっている。長すぎてすることがなくなるなんて贅沢、きっと大学生の間だけなのだろう。何となく想像はつくけれど、渦中にいるとその恵まれている環境を上手く受け入れられない。月森の周りの皆は大体バイトのシフトを増やし、遊びに行くための資金を健気にも貯めていたりする。遊びに行くのにも何をするにしても、やっぱりお金が必要なのだ。それは月森も例外ではなく、やることがない時間を埋めるみたいに夏休みに入って居酒屋のバイトにほとんど毎日のように通っている。大学からほど近い居酒屋は朝賀の部屋からも近く、行き帰りにストレスがなくて快適だった。朝賀は時々部屋にいる月森に対してどう振る舞ったらいいのか分からなくなっているみたいであるが、月森はそれを知りながら何か言われてはこの快適な生活が壊れてしまう可能性があるので、わざと知らないふりをしている。朝賀のそういう気の弱いところにつけ込んでいることに罪悪感がないわけではなかったが、学校がはじまればまた、意識的に距離をとらなければならない日々もはじまるのだ。今くらい好きにさせてくれてもいいだろうと、横暴のまま思っている。 夏休みの間、月森の所属しているビリヤードサークルという名ばかりで、活動実態の不明なサークルの活動は当然のようになかったが、部長が海の家を手伝うことになったらしく、その手伝いの仕事が友達伝手に回ってきた。居酒屋と朝賀の部屋を往復する日々が、何となく月森の中でルーティン化してきた頃合いだったので、月森は余り深く考えずにそれに参加することにした。仲の良い友達が何人か行くと言ったのも大きい。それに自分の部屋で時々居心地が悪そうにする朝賀も、そろそろひとりにしてやったほうがいいことは分かっていた。朝賀はそれを隠しているつもりのようだが、月森が気付かないふりをしているだけで朝賀の考えは明白だった。なかなか自分の気持ちと朝賀のそれがぴったりくることがなくて、月森は勝手なこととは思いながら少しだけ寂しくなる。一週間旅行に行くと告げた時、朝賀がにわかにその頬を上気させるのを見て、分かっているつもりではあったが、月森は気が滅入った。行くのを止めようかと思ったが、そんな顔をされては行かざるを得なかった。 海の家でのバイトは滞りなく終了し、一週間後、月森は朝賀の家に帰ってきていた。ひとりにしておいたほうがいいと思って離れた手前、海の家を手伝いに行っている間、月森からは一度も連絡をしなかったが、朝賀からは一度電話があった。素っ気なく元気か確かめるとすぐに切れてしまったので、声を聞いただけで微妙な不全感だけが月森の中に黒々と残った。一体あれはなんだったのだろう、朝賀は何を確かめているつもりだったのだろう。荷物を一度自分の部屋に置きに帰った時、朝賀の部屋に戻るのはやめたほうがいいかもしれないと思ったが、その不全感が思い出したようにふつふつと沸き出し、月森はお土産を持っていくという口実を作って朝賀のマンションに戻ってきた。帰ってきたことはメールで連絡しておいたが、相変わらず朝賀の返事は素っ気ないものだった。自分は会いたくて堪らなかったのに、声を聞いただけでは満足できないと思ってその足で帰ろうかとまで思ったのに、けれどそんな子どものようなこと月森にはできずに、結局意地を張っただけだった。 インターフォンを押しても、すっかり見慣れた扉は暫く応答がなかった。もしかしたら朝賀は大学に行っているのかもしれない。夏休みで講義がないというのに、教授は仕事があるらしい。朝賀は時々それを手伝いに行っているのだという。あの暗いかび臭い部屋で津村とふたりきりで向かい合って、何を朝賀はいつも話しているのだろう。津村にその気が全くなさそうなので、月森はそこの心配はほとんどしていないが、大学から帰ってくる朝賀は時々あからさまに元気がなく俯いていることが多かったので、それには流石に何をしてやることもできない月森も余計なことと分かりながら推測せざるを得なかった。待っていても一向に応答がないので、一度帰ろうかと月森が思った時、急にぱっと目の前の扉が開いた。 「・・・あ」 朝賀がそこに立っていた。相変わらず、夏だというのに青白い顔をしている。貧血でも起こしているのではないかと不安になるような色だ。黒い目はこちらを少し見上げるようにして、静かに凪いでいた。一週間しか経っていないのに、それはひどく懐かしい姿に思えた。月森は自分の意思とは無関係に、自然に口角が上がるのが分かった。腕が勝手に動きそうになるのを理性がブレーキをかける。何か言わなければと思い、慌てて持ってきたお土産を朝賀の目線に掲げる。これを渡しに来たという口実が月森にはある。 「ただいま、朝ちゃん。ほらお土産・・・―――」 月森が言い終わらないうちに、朝賀がこちらに手を伸ばしてきて、気づけば背中で扉がゆっくり閉まる音がしていた。月森は電気の点いていないせいで薄暗く、冷房の利いている部屋の玄関で驚いた余り、何も言えずに立ち竦んでいた。朝賀の腕が背中に回って、今までに感じたことがないくらいきつく月森の体を抱き締めている。部屋は冷房が利いているはずなのに、月森は長い間外で待たされたせいなのか、それとも他に理由があるのか、その時随分熱く感じた。月森はゆっくり首を動かして自分の首筋に顔を埋めてじっとしている朝賀を見下ろす。するりと右手からお土産がほどけて床に落ちていった。何がどうなってこうなっているのか分からない。自分が抱き締めてしまったのかもしれないと思ったけれど、月森の腕は両方ともだらりと力なく下がっている。朝賀は何も言わない。ただその腕の力だけが静かな空間の中、確かなものとして月森の感覚を揺さぶっている。月森はそっと朝賀の背中に腕を回して、彼と同じようにぎゅっと抱いた。熱い体だった。 「・・・どしたの朝ちゃん」 すると腕の中の体がまるで今気付いたみたいにびくっと動き、朝賀が月森から体を離そうとした。しかしその前に月森がしっかりホールドしていたので、それは不発に終わる。それでも諦めずに、朝賀が上半身だけ仰け反らせるようにして月森から何とか距離を取ろうとする。強情だ、月森は苦笑しながらそんな朝賀の懸命な抵抗を見守る、月森は朝賀の背中から腰にゆっくり腕を下ろした。上半身には空間ができて、朝賀の焦燥した表情はよく見えた。朝賀がまた半身を捻る。しかし動かない。 「・・・ごめん・・・」 「俺がいなくて寂しかった?」 ふざけて笑うと、朝賀の頬がさっと赤くなったのが分かった。図星だったのだろうか、月森は顔を背ける朝賀の赤くなった頬を見ながら、確かめるつもりで一度瞬きした。寂しかった?本当に?あんなにひとりになりたがっていたのに?にわかには信じられなくて、月森は自分のほうがからかわれているような気がした。朝賀が冗談をうまく言えないのは知っているつもりだったが。夏になっても外を余り歩くことのない朝賀の冷えた白い手が、ゆるりと月森の白いTシャツを掴んでいる。 「朝ちゃん教えて、ほんとに寂しかった、の?」 「・・・そんなわけ・・・―――」 顔を背けたままの朝賀が、口元だけを笑みの形にしながらもう一度後退しようとした。返答を半分くらい聞きながらそんなわけないよな、と月森は何故か妙に納得していた。ふっと朝賀の目の奥が揺れて、反らされた目が月森の視線と絡む。朝賀はゆっくり瞬きをした。月森は何となくその時何か言わなければならないと思ったが、何を言ったらいいのか分からなかった。朝賀の言葉に納得しながら本当はどこかで期待していたし、一丁前に傷ついていたのかもしれない。そうやってふざけている間は冗談で済まされる間は、自分だけが痛い思いをしないから、月森は時々それを選んでしまっている。 「・・・寂しかった・・・よ」 不意に小声で朝賀が言うのが聞こえて、月森は耳を疑った。 「・・・え?」 「君がいなくて・・・寂しかった。おかえり」 「・・・―――」 腕の中で体を捩っていた朝賀が、ふっと体の力を抜いて急に月森へしな垂れかかった。重みが胸の上から伝わってくる。じわりと朝賀の体温も広がる。不思議だった。月森の知っている朝賀はそんなことは絶対に言わない。だから不思議で、確かに重くて暑い体を感じられるけれど、それでもまだ信じられなかった。どれだけ我が儘を聞いてくれるのか、どれだけ踏み込んでも許してくれるのか、いつも試すみたいに繰り返している。10回に1度くらい、こんな風に奇跡みたいに朝賀が振る舞う間は、まだ期待する余地もあるのかもしれないと思う。その余地があるだけ裏切られて傷付いたりするのかもしれないことは分かっていたが。自分ばっかり好きでいて自分ばっかり欲しいことを、なかなか自分ではコントロールできなくて、朝賀が何を思っているのか、何を考えているのか、本当はもっと知りたいけれどそれが分かったら、今度こそ本当に我が儘も横暴も朝賀には通用しなくなるのかもしれない。こんな奇跡を期待することもなくなるのかもしれない。 (そんなこと言ってほんと、いつか後悔するよ) 朝賀の熱い体を抱き返して、月森は朝賀の髪の毛を下からかき上げるようにして撫でた。朝賀の体がびくりと跳ねる。腕を解いて朝賀の顔を正面から捉えると、唇にキスをする。朝賀の体が一度後退しようとしたのを、月森は両肩を抱いて引き寄せた。何も言わない朝賀の目の奥は先程までは静かに凪いでいたはずなのに、ゆらゆらと揺らいでいるような気がした。 (俺のことどこまで許してくれるの) 黙ったままもう一度キスをした。聞くのは怖い、だから聞けない、本当のことなど知らなくても構わない。懲りたのか朝賀はもう体を強張らせることはなかった。月森は角度を変えて何度かキスをした後、朝賀の冷えた白い首筋を吸った。朝賀の腕がおずおずと月森の肩に回り、指先が首にひっかかる。確かめないでいる間は、知らなかったですまされるのだろうか、一体いつまで、一体何処まで。朝賀はそれを自分に許して、こんな風に触れていられるのだろう。廊下が月森の視界の端に映っている。その角を曲がってリビング、奥の扉を抜けたら寝室。目を閉じてもきっと歩けるそんなに広くはない朝賀の部屋。けれどここからベッドまでの距離が果てしなく遠い気がした。目眩がする、直射日光を浴び過ぎたせいなのだろうか。 「・・・んっ・・・」 「このまま、していい?・・・アルコールいる?」 耳元で聞こえる朝賀の吐息が熱い。Tシャツの下から手を入れると薄っぺらの胸がまた夏バテで痩せているような気がした。自分がここにいない間、朝賀はちゃんと食べていたのだろうか。ちゃんと寝てちゃんと起きて、ちゃんと仕事に行っていたのだろうか。ふと不安になる。朝賀が死のうとしていたと言っていたことが脳裏を過るから、ひとりの大人の男だと分かっているのに不安になる。朝賀の指が不安定に震えて、月森の首筋を引っ掻いた。痛い間はまだいいと思った。 「・・・いら、ない・・・っ」 朝賀が体を捻って呟くように言う。先を急くように朝賀の指が月森の首筋を掴み直す。神経が全部痺れて、月森は朝賀の体をぎゅっと強く抱いた。 (・・・今日、ほんとに変だよ、朝ちゃん) 月森が笑うと首筋に息がかかってくすぐったかったのか、朝賀が体を小さく震わせたのが分かった。 fin.

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