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だれもしらない Ⅰ

研究室はいつ来てもうっすらとカビ臭かった。扉を開けると思ったより縦に長く、壁際には天井までの本棚があり、おおよそ研究者しか読まないだろう偏った内容の本が並んでいる。天井に近いところは余り触られていないのだろう、うっすらとほこりを被っている。下に降りるにつれて本の並びも段々と雑になってきており、横に積まれている部分もある。本棚を抜けると奥に窓を向いた長机が設置されており、小さなパソコンが置いてある。その周りにも本が平積みされており、本の他には学生から集めたレポートや次の講義で配るレジュメも並んでいる。決して片付いているとは言い難く、ひとがひとり座るだろうところだけが、不思議と物が整理されてなくなっている。更に奥には教授のためのスペースがあり、一応申し訳程度の目隠しのための間仕切りはある。月森はここを何度も訪れているが、その奥には入ったことがない、用がないからだ。もっとも、その奥の主人、教授の津村は多忙なのか、いないことのほうが遥かに多かった。 朝賀の体を押し付けた本棚が、不安定にぐらぐらと揺れている。本でも降ってきたら困るな、と月森はふと考えた。専門書は何が書いてあるのか不明な割に分厚いことが多い。落ちてきて当たりでもしたら、笑い話では済まないかもしれない。 「つ・・・きもり、くん・・・っ」 何度目かの朝賀の抗議を耳元で聞きながら、月森はそれを知らないふりをして、朝賀の綺麗にアイロンのかかったシャツをスラックスから引き出して、下からそっと手を入れた。朝賀がシャツに毎日きちんとアイロンをかけているのを月森は知っている。せめて恰好だけでも小奇麗にしておかないと、と思っていることも知っている。ゆっくりとそれを朝賀の肌に添わせると、朝賀の体が面白いほどびくびくっと震える。真っ赤になった耳が見え、愛おしくて思わず食むと朝賀が息を飲む声が耳元で聞こえた。 「ァ・・・だ、め・・・」 本当に嫌ならもっと真剣に自分を引き剥がす方法を、朝賀は考えたほうがいい。そんなことでは欲情を煽っているのと同じで、まるで役に立たない。朝賀の指が不安に揺れて、縋るみたいに月森のTシャツの肩口を掴んだ。それが微弱に震えている。こんなところで最後までするつもりはなかったが、朝賀があんまりにも月森の中の本能を撫でるので、一体どこまでが良くてどこからがいけないのか、引き際を決めかねて困っているのは月森のほうだった。講義の間に少し顔が見たいと思って研究室を訪ねると、いつものような困った顔をして朝賀が迎えてくれた。さっきまで一緒にコーヒーを飲んで、他愛無い世間話をしていたはずなのに、いつの間にかこんなことになっている。また頭上で本棚が揺れて、月森はいよいよ朝賀の体を本棚に委ねているのは危険だと思った。 「朝ちゃんこっち、ここ座って」 「・・・え・・・?」 体を離すと逃げられそうなので、朝賀を抱え込むようにして朝賀が使っている机の物のないところに、ぼんやりととろけた目をして惚けたままの朝賀を座らせる。目線が幾分か下がって丁度いいと思った。月森はその前に膝立ちになり、既に捲り上げられ、きっちりアイロンをかけた労力空しくすっかり皺になっている朝賀のシャツのボタンを丁寧に外した。 「月森くん・・・ほんとに、もう」 上から降ってくる朝賀の声が震えている。分かっている、こんなところで最後までしたりしない。しかし月森はそれを口には出さない、嘘になっては困るからだ。 「大丈夫、ちょっとだけ」 「・・・そんな、もう―――」 脇腹にそっと触れると、朝賀の体がまたひくつく。それが生理的な反応なのか、朝賀が何かを期待しているのか、月森には分からないので、自分の都合の良いように解釈している。朝賀が許してくれるところまで、本気で怒ったらそこでやめようと決めながら、月森は朝賀の白い肌を吸った。もっとも気が弱くて流されやすい朝賀が、ストップをかけられないのをなんとなく月森は分かっていたし、かけられたところで自分がちゃんと止められるだけの冷静さと理性が残っているかは別問題だと思っていたが、考慮には入っていない。朝賀がぎゅっと目を瞑って、指が何かを探すみたいに月森の腕を這って、シャツを握ってまた止まる。白いそこにそっと舌を這わせると、朝賀が月森の頭の上で熱い息を漏らした。 「・・・あっ・・・んっ」 月森は勿論、朝賀だってこの背徳の雰囲気に酔っているのかもしれない。こんなところでこんなことをしているという、その背徳の雰囲気に。何でも自分にとって都合のいい風に解釈して、月森は立ち上がって朝賀の唇にキスをした。朝賀がやんわりと戸惑いながらそれに応える。いじらしくなって月森は離れようとする朝賀の肩を引いて、もう一度深く口づけた。本当はキスをするだけにしたかったけれど、朝賀の濡れた目を見ているとなんだかそれだけでのこのこ帰るわけにはいかないような気がしたのだ。 「つき、もりく、ん・・・」 唇が唾液で光っている。月森はそれをそっと撫でて、もう一度キスをしようと朝賀に顔を近づける。朝賀がそれに応えるように目を閉じた。すると急に扉が叩かれる音がして、月森はぴたりと動きを止めた。朝賀も閉じかけた目を見開いて月森を、そしてその奥に見える扉を見ている。 「・・・誰かきた」 「誰かきたじゃないよ!あぁ!もうどうしよ!月森くんちょっと退いて!」 悠長に声を漏らす月森の体を今までとは違う力の入れ方でぐいと退けると、朝賀は机からひらりと降り、月森に散々良いようにされたシャツを素早く直した。そうやって本当は簡単に、朝賀は月森を拒むことができるのだ。それをしないということはもうそれは同意をしているということで、これはふたりとも同罪であるということの証明になる。月森はそれを見ながら指先に残った熱のやり場に困っていた。来訪者に応えるために扉の方に小走りで向かった朝賀が、急に立ち止まって思い出したように振り向く。まだほんのりと朝賀の頬は上気していて、月森はぐらっと自分の中の何かが茹だるのを感じた。 「月森くんちょっと隠れてて!」 「え?隠れる?どこに!」 「どこでもいいから!」 どこでもいいと言われても、この部屋に隠れるところなんてどこにもない。月森は仕方なく机の下に潜り込んで、朝賀の使っている椅子を楯がわりにした。しかしこんな気休め、なんの意味があるのか分からない。正面から見ればすぐ分かってしまう。朝賀はそれを確認するとよしとしたのか、扉に近づいていった。

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