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だれもしらない Ⅱ

「はい」 そしてゆっくり扉を開ける。津村か、津村に用がある教授だったら厄介だなと思ったが、そこに立っていたのはかわいい女の子だった。 「あ、朝ちゃん。津村せんせい、いる?」 「先生は・・・今いないけど、どうして?」 朝賀は内心ほっと胸を撫で下ろしながら、女の子に向かって柔らかく微笑んだ。 「あの・・・レポート、昨日までだったの、忘れてて・・・」 「あ、なんだ。じゃあ僕が預かっとくよ」 「ありがとう!朝ちゃん!単位・・・大丈夫だよね?」 女の子が不安そうに聞く。期限のことを気にしているらしい。本来なら期限が過ぎたものは受け取れないが、ここでそうやって揉めて時間がかかるのは朝賀としても不本意だ。部屋の中で息を潜めているらしい月森の様子も、気になって仕方がない。彼女にはなんでもいいのではやく帰ってもらって、そして月森もさっさと追い出さなければいけない。そもそも彼に関して言えば、はじめからここに入れるべきではなかったと朝賀は後悔とともに小さく溜め息を吐いた。それは朝賀と月森がこんな奇妙な関係になる前から、月森が時々ふらっとやって来たのを何でもないことのように朝賀がここに入れてしまっていたからだ。その時からの延長というか慣れというか、おそらくは惰性でこんなことになっている。 「・・・朝ちゃん?」 「あ、ごめん。大丈夫、先生まだ確認してないから、昨日出したことにしておいてあげる」 「ほんとに!ありがとう!」 女子生徒は満面の笑みを浮かべて持ってきたレポートを差し出した。薄っぺらいそれを朝賀は笑顔のまま受けとる。何でもよかった、はやくここから立ち去ってくれれば。 「・・・ねぇ朝ちゃん、体調悪いの?」 「え?」 思わずさっき受け取ったばかりのレポートを手から落としそうになって、朝賀は張り付けた笑顔が引き攣るのが分かった。 「顔赤いけど・・・大丈夫?」 「・・・だっ・・・大丈夫、ありが、とう・・・」 不自然に声が震えた。先ほどまで部屋の中で月森としていたことが脳裏を過って、更に顔が赤くなっていないか不安になる。 「ならいいけど・・・気を付けてね。レポートありがとう!」 「あ・・・うん」 曖昧に返事をする朝賀を置いて、彼女は駆け足でその場を去っていった。朝賀は女子生徒の背中が完全に廊下の角を曲がって見えなくなるまで、ぼんやりと見送っていた。手の中に残ったのは彼女のレポートだけ。表紙に書かれた名前に見覚えはなかった、なのに彼女は朝賀のことを馴れ馴れしく呼んだりして、不思議だ。学校にいるとこういう不思議には時々遭遇する。朝賀はひとつ小さく溜め息を吐いて、開けっ放しだった扉を閉めた。ともあれ、事態は終息したのだ。部屋に戻ると月森が丁度机の下から出てくるところだった。朝賀しか戻ってこないことが見えて、隠れる必要がないことが分かったのだろう。朝賀はそれを見ながら眉を潜める。朝賀の手の中で、彼女のレポートが強く握られてぐしゃりと歪んだ。ふらりと立ち上がった月森は、一応は申し訳なさそうな顔でへらっと笑って、まだ扉の前に立っている朝賀に近づいてきた。 「朝ちゃん、よかったね、生徒で」 そしてそのままくるりと腕を回してくる。朝賀はそれに一層怪訝な顔をする。 「よくない、離す」 「・・・―――はい」 いつもより少し低めの声で朝賀の本気を感じたのか、月森は回しかけた腕をゆっくり元に戻した。 朝賀は月森の横をするりと抜けて自分のデスクに近づくと、レポートを入れているボックスを出し、それの一番上に彼女のレポートを置いた。学生の提出物の管理は津村でなく朝賀の役割だったから、津村にそれを渡す前なら期限を誤魔化すくらいは可能だった。もっともこんなことがなければ、期限を守って提出している他の生徒に申し訳ないので、こんなことをしてやる理由がないのだが。はやく津村にそれを渡しておかねばならない、どこかで誰かが聞き付けて受理してもらえると思ってレポートを持って来られては困るからだ。朝賀はその箱を直さず机の隅にやった。目の届くところに置いておけば忘れることもないだろう。 「あさちゃーん・・・怒んないでよ」 すると後ろから月森の弱々しい声がして、朝賀は肩で息を吐いた。仕方なく振り返ると、月森はそこで眉を下げて一応は反省しているように見えた。しかしどこまでポーズなのか分からない。一瞬朝賀は罪悪感が撫でられた気がしたが、ふいと月森から視線を反らした。 「月森くん、もうここにくるの禁止にするから」 「えぇ!?そこまで!?」 「当然です、先生だったらどうするつもりだったんだよ・・・ほんとに」 「そんな・・・朝ちゃんだってその気だったくせに・・・」 唇を尖らせて、月森が不服そうに口の中でぼそぼそと文句を言う。さっきまでしおらしくしていたのが嘘のようで、朝賀は耳を疑った。 「は・・・!?」 「うっとり目閉じてたのに!俺ばっかのせいにして・・・」 「何言ってるんだよ!僕は嫌だって言ってたのに君が・・・!」 「朝ちゃんのイヤはイヤじゃないもん。俺知ってるから」 「・・・っ・・・とにかく!もうここには来ないこと!はやく出てく!」 にやにや顔の月森の背中を押して、扉の付近まで連れていく。口では文句を色々言いながらも、何だかんだと月森は思ったより抵抗しなかった。椅子の上に置きっ放しだった月森の軽い鞄を拾い上げると、その胸に押し付けるようにして渡す。出ていくことを指だけで指示すると、困ったように月森は頭を掻いてドアノブに手をかけた。しかし回さずくるりと振り返る。 「じゃあ今日家行っていい?」 まるでとてもいいことを思いついたみたいないい笑顔でそう言われて、朝賀は盛大に溜め息を吐いた。大人しく言うことを聞くつもりはないらしい。 「だめ。しばらく家に来るのも禁止」 「えー!?なにそれ?じゃあどこで会うの?」 「さぁ」 朝賀が惚けて首を傾げるのに、月森は慌ててその肩を掴んだ。 「そんな、ひどいよ、朝ちゃん」 「はやく帰る」 しかし朝賀は冷たく扉を指差す。月森があからさまに肩を落として、くるりとこちらに背を向けた。いい薬になればいいのに、と朝賀はそれを見ながら思う。率直で嘘はないのだが、いつも何だかんだと月森に言い包められている気がするので、今日ばかりは自分の方が優位に立てている気がして、清々しい気分だった。扉を出て未練がましく振り返る月森に、朝賀は先生の顔に戻って手を振る。 「さよなら、月森くん」 「・・・はーい」 最後の最後まで何かを言いたそうではあったが、月森は結局何も言わずに背を向けて去っていく。その元気のない足取りを見ながら、テスト期間を来週に控えているし、これから仕事がきっと忙しくなるので丁度いいかもしれないと朝賀は思っていた。 (テスト終わったら、許してあげようかな・・・) 結局彼の思い通りなのかもしれないが。 fin.

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