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あなたと私の秘密
何が気に入らないのか自分でも良く分からないが、多分自分は月森のことが嫌いなのだと伊原が自覚したのは最近だった。そもそも月森とはそんなに個人的に仲がいいわけではない。友達の多い月森が、おそらく一番一緒にいる率の多い友達の輪の端にたまたま伊原もいただけだ。何を切欠にしてかもう思い出せないが、擦れ違えば挨拶をしたし、一緒に講義を受けたし、流れでご飯を食べることもあった。けれど月森と個人的に連絡を取ることはなかったし、他に友達がいればそっちと喋っていることのほうが多かった。それなのに何故自分がこんなにも月森を気にしているのか分からないが、輪の中で笑っている月森を遠くから見る度に、伊原は自分の心の中の汚い感情が呼び起こるようで耐えられないでいた。いつも一緒にいるわけではなかったが、どこかでよく観察していたので、伊原は月森の微妙な変化にすぐに気付いた。その視線の熱が徐々に増していくのを、近くで静かに見守っていたのだ。どうやら最近、それはおさまるところにおさまっているらしい。月森が時々全てを遠ざけるみたいにふらっと輪から外れて教授の研究室ばかりが集まる棟に出向くようになったのが、いい証拠だと思った。
「伊原くんどうしたの」
突然訪ねた自分のことを、目を丸くして朝賀が見上げている。月森は津村の講義は全て受講している。それはこの助手に会う口実を作るためだと伊原は知っていた。おじさんおばさんばかりの講師陣の中で、朝賀は珍しくまだ若く、尖ったところがないので生徒からは好かれていた。もしくは舐められていたと言った方がいいのかもしれない。若い准教授はもうひとり羽ノ浦という男がいたが、こちらは朝賀とは対照的に人当たりのよい、飄々とした雰囲気の男だった。伊原も津村の講義は受けていることが多かった、それはほとんど月森を観察する名目で。朝賀は突然訪れた伊原には驚いたようだが、扉を開けて研究室の中に入るように促した。部屋の中は本が多く片付けられていない、そして少しかび臭い匂いがした。
「ごめんね、伊原くん。津村先生は今講義中で・・・」
知っていた。わざと狙ってこの時間に来たのだ。朝賀は俯いて伊原に椅子を勧めた。伊原は口先で礼を言うと、朝賀に従って椅子に座る。朝賀はどうしていいか分からないようで、座りかけて立ち上がると研究室の奥に行きかけて振り返った。
「コーヒー、飲む?」
「・・・はい」
朝賀はそれににこっと笑った。俯いて困った顔をしていることは多かったが、余りそういう顔は見たことがなかった。伊原はぼんやり朝賀の白ベースに青いストライプの走る、綺麗にアイロンがかけられたシャツを見ていた。朝賀はいつもそういうきちんとした格好をしている。ややあって朝賀がコップをふたつ持って戻ってくる。決して片付いてはいないテーブルの上にそれを置くと、伊原に勧めた。伊原は定型文よろしく簡単に礼を言うと、それに口をつける。ドリップコーヒーらしい味がした。
「伊原くんどうしたの、先生に用事?」
首を傾げて朝賀が問う。コーヒーを振る舞う前に、先にそれを聞くべきだ。自分も飲むつもりだったから、ついでなのだろうことは何となく分かっていたが。
「いえ、朝賀先生に会いに来ました」
「・・・え?僕に?」
「はい、先生に相談したいことがあって」
「・・・なに?どうしたの?」
完全に困惑した表情になる朝賀は、いつもの朝賀に見えた。朝賀は学内でいつ見かけても、誰とどんな話をしていても常に困ったような顔をしている。それがデフォルトだ。伊原はその先に続く言葉を慎重に選びながら、ぺろりと唇を舐めた。
「俺、すぐに女の子にふられてしまうんです」
「・・・え?」
「彼女はすぐできるんですけどまたすぐふられて・・・何がいけないのかよく分からなくて」
朝賀が目を真ん丸くして、こちらを見ているのが分かった。自分の容姿が人より幾分か整っていることは、いつからだったか分かっていた。女の子と付き合うことは伊原にとっては苦痛ではなかったので、告白してきた女の子と何も考えずに付き合うことも多かった。けれど彼女たちは自分から好きだと言ってきた癖に、最終的には伊原がふられることになることが大半であった。伊原は生まれてから一度も誰かを好きだと思ったことはないし、自分から告白したこともなかったが、彼女たちと付き合っている間は、できるだけ誠実に振る舞っているつもりだった。だけど最後の言葉はいつも彼女たちのものだった。伊原はいつも去っていく彼女たちの背中を、訳も分からずただぼんやり見送っているだけだった。
「俺、何がいけないんでしょうか」
「・・・い、はらくん・・・それ、僕に相談すること・・・かな?」
「友達に聞いても取り合ってくれないので、先生なら聞いてくれると思ったんですが・・・」
「えっ・・・あ・・・ごめん」
朝賀は目をぱちぱちさせて、困ったように俯いた。男友達は、そんな伊原を取り巻く環境を楽しんでいたのははじめの一ヶ月くらいで、すっかり飽き飽きしている。そして事が起こってもまたか、としかもう言わない。伊原自身それをとりたてて深く考えて、深く悩んでいるわけではなかったが、こうして口に出してみれば、改めて何故なのか分からなくなる。真剣に向き合ってないのがばれているんだよ、と何の話の流れだったか忘れたが、月森に言われたことがある。その事をふと思い出して、伊原はじわりと腹の中が熱くなった気がした。こういう嫌な感じ、月森を見ていると時々どうしようもなくこういう嫌な感じに襲われる。月森の何気なくはなったそれは真実だったかもしれないが、伊原はそれに意地でも頷くつもりはなかった。
「・・・う、うーん・・・伊原くんほらかっこいいし・・・彼女の子は不安になっちゃうんじゃないかなぁ・・・?」
「かっこいい、先生そんなこと思ってないでしょ」
「え?どうして?思ってるよ・・・」
朝賀の目が泳ぐ。伊原はそれを無意識に追いかける。
「じゃあ先生が俺と付き合ってください」
「・・・―――え?」
「いいでしょ」
ちらりと朝賀の方を見るとしっかり目はあったが、朝賀は黒目を大きくするばかりで何にも見ていないようだった。伊原は椅子からゆっくり立ち上がって、少し離れたところに座る朝賀の側まで行った。朝賀の目はしっかり伊原を追いかけている。
「いいでしょ、月森より俺のほうが」
「・・・―――」
するとさっと朝賀の顔が青くなって、唇が震えはじめた。伊原は朝賀がまた俯こうとし、顎を下げるのを指で止め、上を向かせた。目の表面に水分がじわじわと集まってくる。隠す気がないのか、伊原は少し拍子抜けしながら朝賀のつるりとした顎を撫でた。
「い、はらくん・・・」
「黙っとくから、いいですよね?」
「・・・そんな・・・」
「先生に拒否権はないんですよ、俺がこれを誰かに報告したら、先生、あなたは職を失うだろうし、大事な月森は退学になるかもしれない」
「・・・伊原くん・・・何を・・・言ってるんだ・・・」
「俺は先生を脅してるんです、分かるでしょ?」
しらばっくれることもできたはずなのに、朝賀はそうはしなかった。おそらくする余裕がないのだ、なんという脇の甘さだろう。伊原はすっかり狼狽し、伊原の言葉を肯定しかしない朝賀のことを見下ろしていた。嫌がらせのために自分がまさかこんなことまでするとは思わなかったが、知れば月森は少なからず傷つくだろうし怒るだろう。彼らの関係にだってこうして簡単に皹を入れることができるのだ、考えながら伊原は朝賀の顎から指を離した。月森が朝賀のどこが良くて、あんなにも固執しているのか分からない。分からないが月森が笑っているのを見ると、腹の中がじりじりとするから、自分がどこまで本気でこれを遂行するつもりでいるのか、伊原自身も決めかねていたが、これで少しでも気分が晴れるかもしれないと思っていた。
「・・・伊原くん・・・僕は君とは付き合えない」
「月森が退学になってもいいんですか」
「たぶんそんなことじゃ退学にはならないよ。僕は辞めなきゃいけなくなるけど・・・」
「それはいいんですか」
狼狽していたはずの朝賀は、いつの間にか正気を取り戻したように落ち着いていた。
「困るよ、勿論。だけど仕方がないよ・・・それに月森くんとはそんなに長く続くとは思ってないから・・・だからいい機会・・・なのかもしれないし」
俯く朝賀は、冗談を言っているようには思えなかった。きっと朝賀は冗談など言えないだろう。伊原も冗談は苦手だったが、それとは違うベクトルでこの男はそういう器用なことは出来ないだろうと思った、それはもう体質的な問題で。月森はこれを聞いたことがあるのか、伊原の脳裏に月森の無邪気な笑顔が過って、それがとても不憫に思えて、伊原は急に自分の中の熱が冷まされていく気配を感じていた。月森が少しでも傷ついて、その明るい顔を陰らせてくれればよかった。これを聞けば月森はその明るい顔に影を落とす、程度では済まないだろう。あんなに心酔しているのだ。朝賀の何処が月森にそうさせているのかは分からないが。
「先生、月森が可哀想です」
「・・・え?」
「先生がそんな考えじゃ、あいつが可哀想です。月森はそんな風には考えてないと思います、先生のこと」
「・・・伊原くん・・・?」
「可哀想だから黙っといてあげますよ」
伊原はするりと朝賀の側から離れて、座っていた椅子まで戻ると床に置いたままだった鞄を拾い上げた。鞄は酷く軽くて鞄それ自身の重さしかないように思えた。月森が幸せそうに笑うから、全てが上手くいっているのだと思って疎ましかった、もしかしたら羨ましかったのかもしれない。伊原は自分が永遠にそこまでたどり着けないことを、この若さで何となく理解し、そして諦めることを余儀なくされていると自身で結論付けていたからだ。だけどどうやらそうではないらしい。恋人と言うのは難しい、朝賀と月森の関係がそう単純な形に成り立っていないことに、伊原は少し驚きながら納得していた。だから伊原はそれを結局のところ理解できないのかもしれない、だから女の子に優しくしているつもりでも最終的には手を切られるのかもしれない、この先もずっと。振り返ると朝賀がぽかんとして、自分のことを見ているのと目が合う。
「月森に飽きたら、俺のことも考えてください」
伊原くん、と朝賀が呼んだ気がしたが、その前に研究室の扉を閉めたので、それは伊原の気のせいだったのかもしれない。
Fin.
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