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子どもの悪戯なので

「また嫌がらせやってんのか」 急にそう声をかけられて、伊原はふっと顔を上げた。廊下の奥に:羽ノ浦(:はのうら)の姿が見える。片手に本を何冊か持っているところを見ると、講義が終わって丁度帰って来たところなのだろう。伊原は腕時計に目を落とした。予想通り講義が終わる時間は過ぎていた。伊原が羽ノ浦のそれには答えないで黙っていると、羽ノ浦は伊原の返答には余り興味がないかのようにゆっくり近づいてきて、津村の研究室の隣の扉に鍵を差し込んだ。研究助手の朝賀と違い、羽ノ浦は准教授であったから自分の研究室を持っているのだ。年齢は朝賀とそう変わらないはずなのだが。生徒の伊原から見れば教授の階級などあってないようなものだったが、おそらく羽ノ浦がこの年齢で准教授の席を持っていることは、羽ノ浦が優秀な証拠なのだろう。校内で見かける時はいつも女の子に囲まれてへらへらと笑っているので、何となくそう結論付けたくはなかったが。伊原が眉間に皺を寄せているのを、全く羽ノ浦は見ようとしないので、痺れを切らして伊原は声を上げた。 「嫌がらせってなんですか」 「朝賀先生困ってるだろ、可哀想だからもうそっとしといてやれ」 ちらりと切れ長の目で羽ノ浦に見下ろされ、窘めるように言われる。まるで子どもの悪戯でも咎めるような口調に、余り感情の動かない伊原でさえ僅かに腹が立った。言い返そうと伊原が口を開くと、羽ノ浦はそれ以上聞く気がないのかひらりと研究室の中に入ってしまった。廊下にひとり残された伊原は、それを追いかけるようにして目の前で閉まりかかった研究室の扉に手をかける。そしてそれを開けて勝手に中に入った。隣の津村の研究室と同じ作りか、少し小さい部屋の中は、津村の研究室よりも遥かに綺麗に片付いていて、伊原は一瞬自分の目的を見失った。とても同じ部屋には思えなかった。他の教授の部屋には入ったことがないので比べようがないが、何となく研究室というものの字面から、部屋は汚く乱雑に物が積まれているところという印象だったので、どちらかと言えば津村の研究室のほうがずっとそれらしく思えた。伊原が何も言わずにもの珍しそうに部屋を見渡しているのを、羽ノ浦は分かっていたが、すぐには咎めず暫く彼の様子を見ていた。 「伊原くん、ノック」 「えっ、あっ」 「部屋に入る時はノックしてください」 奥の机に座って、羽ノ浦は伊原に背を向けたまま、急に教育者ぶって丁寧な口調でそう言った。反射的に謝ろうと思って言葉が出かかったが、どうしてそんなことを自分がしなければならないのか、冷静さを取り戻した頭がそう自分に問いかける。分からなくて伊原は唇を噛んだ。そしてゆっくりこちらに背を向けたままの羽ノ浦に向き直った。研究室の綺麗さに驚いている場合でない。 「先生、嫌がらせってなんですか。俺はそんなこと・・・―――」 「嫌がらせだろ、朝賀先生はそれでなくてもあれこれ考えてしまうひとなんだからあんまり困らせるな」 「先生知ってるんですか」 「まぁ大体」 背を向けたまま、羽ノ浦は机の中から何やら取り出して書き物をはじめた。酷く蔑ろにされている気がして気分が悪いが、それを羽ノ浦にどう伝えたら良いのか分からない。伊原が月森を観察し続けて出した結論に、他の誰かが辿り着いていたとしても、別に不思議ではなかった。月森の変化だけで言えば決して分かりやすいわけではなかったと思うが、羽ノ浦はおそらく朝賀の様子が平常とは違うことから気付いたのだろう。朝賀はきっと月森みたいに器用に気持ちを隠したり、いつも通りを演じたりすることはできない。羽ノ浦はそういうことには敏感に鋭くできていそうだし、気付いたとしても全く不思議ではないはずだ。不思議ではなかったのに、伊原は自分以外がふたりの関係に勘づいている可能性があることをその時まで全く視野に入れていなかった、何故か、自分でもよく分からない。伊原は黙ったまま、もう何も言ってくれない羽ノ浦の背中を眺めていた。しかし、部屋が隣といえども、朝賀と羽ノ浦の仲が良いとは聞いたことがない。性格的にも馬が合うとはお世辞でも言えないだろう。勿論、ふたりで話している姿も見かけたことがないし、何か特別な接点があるようには思えなかった。伊原がひとりで考えを巡らせていると、羽ノ浦が前触れなくふと振り返る。 「分かったらもう朝賀先生に関わるな」 「・・・何で先生にそんなこと言われなきゃならないんですか」 「いや、ひととして。教育者として注意してる。朝賀先生が可哀想だから、それだけじゃ理由にならないのか」 「好きなんですか」 「あーそれでいいよ、すきすき。だからもうちょっかいかけるな」 手をひらひら振って信じられないくらい適当に言うと、羽ノ浦はまた伊原に背を向けた。伊原は羽ノ浦のその適当であからさまな嘘をどう処理したらいいのか分からなくて、ただその背中を見ていた。大人はこうして簡単に全てを遠ざけることが出来たりして、それだけで卑怯だと思った。津村の研究室で見た朝賀の震えた青い唇を思い出す。あのひとはそんな器量をどこにも備えてなくて、ただ起こり得る全ての事に平等に震えて怯えて生きている。不器用だけれど分かりやすくて、羽ノ浦のそれよりずっと好感が持てる気がした。しかし大人のやり方ではないのだろう、朝賀を基準にしてはいけない。 「それに伊原お前、男前なんだから、こんなことしてないで他の子にちょっかいかけにいけ」 伊原が何も言えずに黙っていると、羽ノ浦はこちらを全く見ないまま、朝賀と似たようなことを呟く。他の誰かにも同じことを言われたような気がする。もう思い出せないけれど。伊原はそれにややうんざりして、ひとつ溜め息を吐いた。そんなこと言われ飽きているし、言われ慣れていて今更何とも思わなかった。すると伊原の溜め息に気付いたのか、羽ノ浦がくるりと振り返った。 「そんなこと思ってないくせに」 「思ってるよ、モテるだろうし羨ましいなって思ってる」 「じゃあ先生俺と付き合ってください」 「何でそうなんの?お前面白いね」 はははと羽ノ浦が軽薄そうな笑い声を立てて、伊原はそれを聞きながら無意識に眉間に皺を寄せていた。そうやってやや馬鹿にしたみたいに笑う羽ノ浦だって、どちらかと言えば端正な顔をしているほうだ。朝賀も女子生徒からは好かれているが、朝賀の好かれ方は懐かれていると言ったほうが正しい。犬猫を愛でるみたいに女子生徒は困って俯く朝賀を、悪気なく悪意なく半ばからかうようにして接しているのだ。本当の意味合いで熱っぽい視線を浴びているのは、羽ノ浦のほうだ。学内で見かける時は、いつも何人も女子生徒に囲まれて賑やかにしている。羽ノ浦はひとりの男で大人で、朝賀みたいに困って俯いてしどろもどろになったりなんかしない。もっとも羽ノ浦が生徒を相手にしないのは、その飄々とした振る舞いから一目瞭然なので、生徒とどうこうなったという話は一度も聞いたことがない。それでもめげずにアプローチする女子生徒は多いらしいのだが。伊原は羽ノ浦のことはよく知らなかったし、しっかり話をしたことははじめてだったが、こんな風に適当にあしらわれてもまだ、その腕にすがろうとする女子生徒の気持ちは永遠に理解できないと思った。 「・・・だって―――」 「もっと彼女とちゃんと向き合って真剣に付き合ってやれ、それだけでいいんだって」 「・・・やってる」 何で言おうとしたことが分かったのだろう。内心驚きながら伊原は一応反論した。 「できてないから長続きしないんだろ、朝賀先生はあんな感じだけど真剣にあいつと付き合ってんだろ?お前がそれに横槍入れてどうこうする筋合いないだろ」 「・・・」 「やめとけ、お前の友達も可哀想だ」 月森の顔が過った。伊原は俯いたまま下唇を噛んで、羽ノ浦の言葉を聞いていた。認めたくないが、羽ノ浦の言っていることは正しい、きっと正しいのだろう、悔しいけれど。ふたりの間に皹を入れたからといって、自分にとって何にもならないことくらい分かっていた。勿論ふたりにとっても。ただ月森を見ていて、もやもやしたりじりじりしたりする気持ちを、少しだけでもいいから晴らしたかっただけなのだ。その方法が間違っていることは何となく伊原は分かっていた、羽ノ浦になんかに分かったように言われるまでもなく。けれど他にどうしたらいいのか分からなかった。他にどんな方法が適切なのか思いつかなかった。あんな風に手放しに誰かのことを深く愛することが、自分には絶対にできないから、簡単にその高い柵を飛び越えてしまう月森のことが眩しくて見ていられないくらい眩しく思えて、そうなれないならいっそこのこと、それが自分のエゴで誰のためにもならないことだとしても、壊してしまいたかった。壊せることで月森より優位に立てるのではないかと思っていた。研究室で朝賀が俯いて苦笑いを浮かべながら、あんな話をするまでは。 「月森は友達なんかじゃない・・・」 「そこじゃないんじゃないか、反論するところは」 ふっと馬鹿にしたように羽ノ浦が笑って、伊原はいよいよ何も言えなくなってしまった。疎ましくて羨ましかった。壊したって何にもならないし、何にも手に入らないばかりか失うことになるもののほうが多いことは分かっていたけれど、伊原は馬鹿げた方法でそれを遂行しなければならないほど、自分が追い込まれていることを、そこではじめて自覚していた。月森の側にいると自分がいかに人間的に欠陥があるのか教えられるようで辛かった、苦しかった。それならば離れればいいだけのことなのに、伊原はなけなしのプライドを守り、その選択肢も自分で潰した。朝賀の震えた青い顔は伊原の尖った神経を宥めはしたが、完全に静めることはできずに、伊原はまた津村の研究室の前に立つことになっている。 「よーし、分かった」 俯いてどうにもならないことを考えていると、羽ノ浦の暢気な声が聞こえて、伊原はゆっくり顔を上げた。座っていたはずの羽ノ浦はいつの間にか立ち上がっていて、こちらを見ているのと目が合う。相変わらず軽薄そうな笑みを張り付けている。 「伊原」 「・・・なに―――」 「俺が付き合ってやろう」 「は?」 「さっき言ったろう、先生付き合ってくださいって。いいよ、俺が付き合ってやるからもう朝賀先生のことはそっとしといてやれ」 「・・・何言って・・・るんですか」 タメ口になりそうになり、慌てて敬語を被せる。それくらいの冷静さはまだ一応自分の中に残っていたようだ。羽ノ浦は立ったまま大袈裟に首を傾げて惚ける。伊原はそれを見ながら、また勝手に眉間に皺が寄るのが分かった。何を言っているのか分からなかった。字面通り分からなかった。確かに一度伊原はそういったが、それは羽ノ浦のテリトリーの中でただ意表をついてやりたかっただけだ。勿論他意などありはしない。羽ノ浦はそれが分かっていたから、あんな風に適当にあしらい、適当にかわした、そうではなかったのか。 「だから俺が付き合ってやるって言ってる」 「先生、なんでそんな」 「真剣にひとと向き合うってどういうことか分かんないんだろ?俺が教えてやるよ。伊原くん」 そうして何かを窘めるように慰められるようにぽんと頭を叩かれた。自分が幼い子どもになったようで、それは酷く居心地の悪い手のひらだった。伊原は顔を上げて、羽ノ浦と意図的に目線を合わせる。一体どうして、朝賀のために何故そこまでするのか、月森ならまだしも無関係のはずのこの男が。そんなことして羽ノ浦に何の得があると言うのだろう。考えても分からない。 「先生、俺のこと好きなんですか」 「あー・・・そう。すきすき」 言いながら羽ノ浦が笑い声を立てる。

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