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ぼくにもおしえて Ⅰ

年上の恋人ができた。そういえば、年上と付き合うのははじめてだった。大体いつも彼女になるひとは同級生か年下だった。もっとも伊原は自分に好意を寄せてくる女の子を、ある程度の見た目の好みはあるにしても、気持ちの面ではほとんど選別したりはしなかった。フリーであれば付き合うし、彼女がいれば断った。伊原にとっては他の感情など無意味で、ただそれだけのことだった。伊原は誰とでも付き合うし、頼めば寝てくれる、と誰かが噂をしているのも何となく知っていたけれど、それをどうこうしようとは思わなかった。ほとんど真実だったからかもしれない。だからその時、同じサークルの後輩に付き合ってください言われた時、伊原の頭に浮かんでいたのは、軽薄そうな声で笑う羽ノ浦の顔だった。 「ごめん、今、付き合ってるひとがいるから」 「え?先輩フリーなんじゃ・・・」 彼女は目を丸くした。伊原が誰と付き合っている、別れた、という情報は誰が流しているのかしらないが、校内には一週間くらいですぐに広まる。もっとも勿論伊原はそんなことをわざわざ口外して歩かないので、女の子から漏れているに違いないのだが。彼女もそれをきっとどこかで聞き付けて、伊原に告白してきているのだろう。それはもう一種、絶対的な計画性を持って。だからその時不思議なことに、彼女はふられたことよりも、伊原に情報とは違い彼女がいるということに吃驚しているようだった。それも変な話である。羽ノ浦が付き合ってやると言ってから一週間ほど経っていたが、伊原が口に出さず羽ノ浦も勿論黙っているので、伊原の周りは酷く静かだった。こうも静かなこともあるのか、ぼんやりと流れていく毎日を過ごしながら伊原は思った。メールも電話も羽ノ浦からはない、そもそも連絡先すら知らない。どこで誰と遊んでいても、帰りが遅くなっても、伊原を咎める目はどこにもない。無さすぎて少し不安になるくらいだ。 「ごめん、いるんだ。付き合ってるひと」 「・・・そう、なんですか。知らなかった・・・」 「ごめん」 綺麗にアイメイクされた目が見開かれている。その時彼女が何にショックを受けているのか、伊原には分からなかった。ふられたことだろうか、それとも絶対だと思っていた情報網だろうか。どちらでも、伊原にとっては同じようなことのように思えた。 取り立てて用事はなかったが、伊原は彼女を見送った足で研究室棟を訪れていた。いつ来てもここにはひとが少ないせいで、廊下に不必要に足音が響く。今の時間羽ノ浦が研究室にいるかどうか不明だったが、羽ノ浦と話をするためには、伊原はこの方法しか持っていない。連絡するかどうかは置いておいて、携帯電話の番号くらい聞いておくべきだと思った。羽ノ浦の研究室は、津村の研究室の隣にある。研究室の並びに特に理由はないらしい。赴任した時に開いている場所を使うようになっている。伊原は羽ノ浦の研究室をノックする前に、ちらりと隣の津村の研究室の扉を見やった。殺風景な扉、津村の名前と朝賀の名前のプレートが飾られているだけだ。羽ノ浦の研究室の扉には、彼が手伝いをする予定の講演会のチラシや提出物を入れるプラスチックの容器などが置かれている。さらに明らかに女子生徒が羽ノ浦にプレゼントしたであろう動物のマグネットも、扉に幾つか貼り付けられており隣に比べると随分にぎやかだった。伊原は扉を開けようとして、ふとノックしろと注意されたことを思い出した。分厚い扉の向こうにノックが聞こえているのか不明だったが、伊原はとりあえず扉を叩いた。3秒待つ。応答はない。いないのかもしれない、考えながらドアノブを回すとそれががちりと音を立てて回った。 「はーい」 扉を半開きにすると中にいた羽ノ浦が、今気付いたみたいに振り返ったのと目が合う。羽ノ浦は伊原の顔を見て、驚いたように目を大きく開いた。まさかここに伊原が来るとは思っていなかったという顔をしている。付き合うと自分から言い出したのに、この男は勝手だ。勝手で適当で、そして次のことを上手く予想する能力に欠いている。考えながら伊原は黙ったまま、半開きの扉化するりと研究室に入り込んで後ろ手できちんと扉を閉めた。こうして簡単に密室は伊原の手の中におさまる。相変わらず部屋の中は綺麗に片付いており、津村の研究室にはあったかび臭い匂いもない。羽ノ浦は一見するとその言動から適当そうに見えるが、きっと神経質なところがあるのだろう。津村の研究室と同じように壁一面に大きな本棚があったが、綺麗に新書と学会誌とそれ以外の読み物、といった風に分けられて並べられている、それは不自然なほど。 「なんだ、お前か。何しに来たんだよ」 口調こそ荒っぽかったが、追い返そうとしているわけではないらしい。伊原は器用に羽ノ浦の言葉の端々から読み取っているつもりでいた。羽ノ浦は持っていたレジュメらしいきものを、ぽんとテーブルに放った。それが半円状にさっと広がる。 「・・・何って、恋人に会いに来ちゃいけませんか」 「そんならもうちょっと嬉しそうにしろ」 言いながら羽ノ浦が笑って、伊原は自分の頬を摘まんでみた。よくポーカーフェイスと言われるけれど、余り自覚がない。羽ノ浦にもそう見えているのだろうか、ぎこちなく笑って見せるとそれをまるではじめて見る生き物を見るような目で羽ノ浦が見ていて、慌てて元に戻した。慣れないことはするものではない。 「先生、俺さっき後輩に付き合ってくれって言われて」 「・・・お前マジで何しに来たの?自慢?」 「ちゃんと断りましたよ、俺先生の恋人だから」 少し誇らしげにする伊原のことを、羽ノ浦は遠くから見ながら、彼が何を伝えようとしているのかよく分からないでいた。幼い子どもが母親の手伝いをして、それを褒めてもらおうと背伸びをしているみたいだと思った。そんな可愛らしさを伊原の言葉は全く孕んでいなかったが。 「・・・あっそ。お前何て言うかその、変に律儀なとこあるよな」 「俺、ちゃんと誠実ですよね?ちゃんとできてますよね?」 「何かそういうこと聞いてしまうあたりちゃんとしてないっていうか・・・」 「どういうことですか」 「まぁいいけど」 羽ノ浦が何か言い淀んでいるらしいことを伊原は聞きたかったが、結局羽ノ浦がそうして言葉を打ち切ってしまえば知る術がなかった。伊原は彼女という名前のついた女の子相手に、一体どうしてやればよかったのか分からなかったので、せめて誠実ではいようとした。それで女の子に怒られたり機嫌を悪くされたりしたことはない。この事に限って言えばの話だが。だからこの方法は間違っていないと羽ノ浦の前でも堂々とできたけれど、羽ノ浦はどうやらそれをよくは思っていない様子で、伊原は内心少しがっかりしていた。羽ノ浦が付き合ってやると言ってから一週間は経とうとしていたが、ふたりの間にそれらしいことは何もなかった。伊原が思い出したようにここを訪れない限り、羽ノ浦はそんな話をしたことすら、このまま忘れてしまうのではないかと思ったほど。羽ノ浦のことは嫌いでも好きでもなかったが、伊原が月森に抱いている後ろ暗い気持ちの正体を羽ノ浦は知っていると思ったし、何らかの形で解消してくれるものと何故か信じていた。だから伊原はできるだけ羽ノ浦相手に誠実であろうとしたし、恋人になろうと努めていた。その結果がこれである。 「先生、俺とセックスしよう」 「・・・は?」 だからこの方法が一番手っ取り早いことも知っていた。 「何言ってんのお前」 「先生俺の恋人でしょう、ならいいですよね、してください」 「・・・―――」 羽ノ浦はぽかんとして、大真面目な顔をして言う伊原のことを見ていた。冗談を言っているようには見えなかった。そもそも伊原は冗談を言えるほど柔軟にはできていない、知っていた。伊原の茶色い目を幾ら覗いても、いつもその真意まで辿り着けそうになかった。それくらい伊原はいつも突然だったし、思考が妙な形に捻じ曲がっていた。特にこういうことにおいて彼が社会的に正しいことを言い出したことはない、ないように思う。そんなに沢山話をしたわけではなかったが。伊原はいつもの無表情だったが、そこには僅かな期待が見え隠れして、一体彼は何を望んでこんなことを言っているのか、一体何を期待しているのか、羽ノ浦には想像もつかなかった。そもそも恋人になるということに彼は同意していたのだろうか、羽ノ浦の一方的な提案に眉を潜めていたのではなかったのだろうか。羽ノ浦はその時のことを思い出そうとしたが、伊原の顰め面しか思い出せずに完全に困惑していた。 何が伊原に決意をさせて、何が伊原にそれを言わせているのか、羽ノ浦には分からない。

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