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ぼくにもおしえて Ⅱ

「伊原、落ち着け」 「落ち着いてます。そんなことでもしなきゃ、俺先生と恋人だなんて思えないから」 「・・・あー・・・」 「だからしましょう。それが一番はやいから」 そう言うと、伊原は持っていた鞄をぞんざいに椅子の上に放った。中身はほとんどカラみたいなものだ。教科書の一冊も入っていない。そしてひどく手慣れた動作でするりと羽織っていただけのインディゴのシャツを脱いだ。それをまるでいらないものみたいに床に落とす。羽ノ浦はそれを見ながら眉を潜めていたが、伊原はそんなこと全く気にする様子なく、手首に巻いていたヘアゴムで少し長い後ろ髪を器用に纏めた。まるでこれから部屋の掃除でもしようかとするみたいな自然さで、しかし彼がしようとしていることは全く別のことだ。羽ノ浦はぼんやりと伊原はきっとそんな手順で目の前で頬を染める女の子たちを扱ってきたのだろうと思った。黙っていると伊原はすたすた羽ノ浦のところまで歩いてきて、羽ノ浦が座っている少し大きめの椅子に手をかけた。そして羽ノ浦の足の間に目敏く隙間を見つけて、椅子の上に膝をつく。 「・・・伊原」 見上げたまま羽ノ浦は名前を呼んで、呼んでから自分の声が酷く掠れている気がした。伊原の端正な顔はいつものポーカーフェイスで、何を考えているのか全く分からなかった。伊原が少し椅子に体重をかけて、それがぎしりと音を立てた。慌てて羽ノ浦は伊原の胸を押し返して、椅子から立ち上がった。伊原の力は強くなく、思ったより簡単に離れ、羽ノ浦はほっと胸を撫で下ろしていた。 「なんですか、先生」 「何ですかじゃないだろう、お前。なんか色々順番すっ飛ばすなよ、怖いわ」 「順番?」 言いながら伊原が首を傾げる。羽ノ浦はそれを見ながら、また少し背中に悪寒が走った。考えてはいたし、伊原が恋愛事に関して酷く歪んでいるのは分かっているつもりだったが、それにしてもこれほどとは思わなかった。羽ノ浦はちらりと伊原に視線を向けた。髪を結ってすっきりした輪郭を無防備なまでに露にした伊原は、羽ノ浦が制したままの格好でそこにぽつんと見捨てられたみたいに立っていた。シャツを脱いでシンプルな白いTシャツだけになった伊原は、酷く頼りなく見えた。羽ノ浦は溜め息を吐いて、伊原が落としたインディゴのシャツを拾い、ゴミをさっと払ってその肩にかけた。 「順番ってなんですか、順番があるんですか」 「あるだろうよ、聞くなよそんなこと。お前、ほんとに」 「俺は何からはじめたらいいですか、先生」 思ったより切羽詰まった声だった。羽ノ浦が視線を合わせると、そこでいつものポーカーフェイスの中に少しだけ焦燥を滲ませた伊原が、真っ直ぐこちらを見ているのと目が合う。冗談なんかでこんなことはしない、そもそも伊原は冗談なんか言えない。はぁと今度は大きく溜め息を吐いた。一度適当にあしらったつもりなのに、勝手に本気にされてこんなことまでさせてしまって、これは責任を自分が取るべき事案なのか、羽ノ浦は考えていた。伊原の眼はその突飛な行動にはそぐわないくらいひどく真っ直ぐで何だか痛い。 「伊原、お前俺のこと好きじゃないだろう」 「・・・別に、嫌いじゃないですけど」 「こういうことは好きな子とするもんなの。わかる?」 「でも俺はたぶん、誰のことも好きになりません。方法が分からないから」 真面目な顔をして呟く伊原を見ながら、羽ノ浦はまた小さく溜め息を吐くしかなかった。 「あのな・・・」 羽ノ浦は手を伸ばして、シンプルな銀色の時計がついた伊原の左手を取った。ゆっくりそれに自分の指を絡める。伊原はそれを酷く不思議そうに見ていた。それを見ながら羽ノ浦のほうが恥ずかしいような気持ちになってくる。そういう真っ直ぐな目を最後に向けられたのがいつだったのか上手く思い出せない。伊原のことを異端と思いながら、自分だって正常なのかと言われたらそれには首を傾げることしかできない。羽ノ浦は伊原が求めていることを、伊原が求めているような形で彼に分からせることは無理だと思っていた。無理だと思いながらどこかで、伊原にも分かる言葉はないか探していた。 「今、どういう気持ち?」 「・・・え?」 「今どういう気持ちがする?お前のここ、どきどきしてる?」 「・・・―――」 言いながら羽ノ浦は、とんとんと伊原の胸を空いているほうの指で叩いた。伊原はぼんやりと不自然に繋がれ、絡められた指先を見ていた。きっと何人もの女の子の手を握ったはずの伊原の手のひらはとても冷たくて、一度も温度を移されたことがないみたいだった。それを温めるようにして、羽ノ浦はゆっくり指の形を変える。伊原はまだぼんやりして素直にそれを見ている。 「・・・分からない」 「な。こうやってどきどきして堪んなくなったらしてもいい・・・いや、うーんしていいのか?俺立場的に大丈夫?」 首を傾げて羽ノ浦が小さく呟く。伊原はそれをぼんやり聞きながら、まだ絡められている指先を不思議そうに見ていた。不意に羽ノ浦が動いて、指先が離れそうになった。羽ノ浦の中でこの話に収集がついたからだ。思わず伊原は手に力を込めて、羽ノ浦の手を握った。離れかけた指先が伊原の所有に戻る。今度はさっきに見たいに緩やかではなく、誰かの意図を持って繋がれている。 「・・・なに」 「先生は俺のこと好きなんですよね」 「え、あー・・・うん」 何故か曖昧に羽ノ浦が呟く。交わっていた視線がするりと外されて、伊原はもう一度ぎゅっと羽ノ浦の手を握った。こちらを向いて欲しかった。羽ノ浦がそれに気付いたみたいにゆっくり視線が戻ってくる。伊原はそれを祈るような気持ちで見ていた。知りたかった本当のことが、もっと。 「先生はどきどきしてるんですか」 「・・・してるよ」 「嘘だ」 「嘘じゃないって。聞く?」 なにを、伊原が聞こうとして口を開く。しかし言葉が出るよりはやく、羽ノ浦の空いている手が伊原の後頭部を包んで頭が胸に押し付けられた。耳の側で心臓の音がする。ちらりと伊原は羽ノ浦の顔を見上げる。 「・・・どう」 「分からない」 真面目な顔で呟くとそれを見ながら羽ノ浦は笑った。 (・・・あ・・・) その時、一瞬どくんと鼓動が高鳴った気がしたが、それが自分のものだったのか、羽ノ浦のものだったのか、伊原には分からなかった。 fin.

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