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正体をあらわせ

その日、伊原はその日も月森と一緒にいた。最近何故か一緒にいることが多い。それは月森とほとんど同じカリキュラムを組んでいるせいだ。春に伊原が仕込んだ事が、半年経ってもまとわりついている。その必要性を段々と感じなくなってもまだ伊原は何となく月森と距離をとる方法が分からなかったので、彼が眩しく微笑むのを隣で無表情で見ていることが多かった。月森はというと鈍いのか気にならないのか分からないが、昨年より遥かに伊原が側にいる時間が増えたことを何とも思っていない様子であった。何故か伊原はそれに気付くと少しだけ腹立たしい思いがした、何故かは分からない。そしてやはり時折月森はふらっと思い出したように伊原の側を、そして彼を取り巻く悪気のない連中の間をすり抜け、研究室棟まで出向いているようだった。月森は変わらない。変わったのは伊原が研究室棟に出向く回数が少しばかり増えたことくらいだった。 その日、伊原は月森と一緒に講義室から講義室へと移動していた。何の話をしていたのか覚えていないが、月森は伊原の前では相変わらず饒舌で、何かを楽しそうに話していた。伊原はそれを半分以上聞き流しながら、適当に相槌を打っていた。月森は輪の中で口を動かしていることは多かったが、お喋りなほうではなかったと思う。きっと伊原があまり喋るほうではないので、ほとんど無意識的に話題を提供する側に回っていたのだろう。伊原はそれが分かっていながら、月森の話に真剣に付き合ったことは余りなかった。そういう変に鋭いところは好きではなかった。気に食わなくてわざと詰まらなさそうな顔をしていたこともある。月森はそんな様子の伊原を楽しませようと、また一段とお喋りになっていった。 「・・・でさーそんとき百合子が・・・」 (・・・あ) ガラス張りになった渡り廊下から、中庭が見える。何気なく伊原はそちらを見ていた。すると向こうから羽ノ浦が歩いてくるのが見えた。珍しくひとりである。あ、と思って伊原は思わず立ち止まった。羽ノ浦は少し疲れているのか無表情で片手に教科書やら何やらを纏めて持っているだけで軽装だった。ここから手を振ったら羽ノ浦は気付くだろうか、と伊原は思った。後で怒られるだろうか、いやでも手を振るだけだ。教師と生徒でも手ぐらい振るだろう。考えながら伊原はガラスの壁に近づく。羽ノ浦の視線はこちらにないが、伊原は手を大きく振ってみた。 「・・・―――」 それを目の端で捉えたらし羽ノ浦が、ぴたりと足を止めて中庭から渡り廊下を見上げる。伊原はそれに向かってもう一度手を振った。羽ノ浦は大袈裟に怪訝そうな表情を浮かべた。やはり良くなかったらしい。 「何やってんの」 後ろからそう声をかけられて、伊原ははっとして振り返った。いつの間にか静かになっていた月森が不思議そうにこちらを見てくる。 「あ、いや」 「誰かいんの?」 すたすたと月森も伊原の隣にやってきて、中庭を見下ろす。それには答えず伊原も目線を戻す。するとそこにはいつの間にやって来たのか、女子学生に囲まれた羽ノ浦の姿があった。月森はそれを目を凝らすようにして見ている、その内の誰かに見覚えがないか見ているのだろう。 「誰?」 「心知はしらない子」 「なんだよそれー元カノとか?」 「まぁ、そんな感じ」 「でも伊原も手を振ったりするんだな」 何故か感心してそう言われ、伊原はどこから沸いて出たのか分からないが、その時女子学生たちに感謝していた。先ほどまで羽ノ浦相手に手を振っても可笑しくはないと思っていたが、いざとなると女の子に手を振っているほうが何倍も自然であると思え、勝手に口は嘘を吐いていた。月森が飽きたようにすっとガラスから離れて伊原も後を追いかけた。離れる一瞬、振り返って中庭を見下ろすと羽ノ浦はまだそこにいて、女子学生に囲まれていた。いつも学内で見かける時にそうであるように、その時も変わらず羽ノ浦は女の子達に対してにこにこと愛想の良い笑みを溢していて、何となくその一瞬だけ伊原は胸がざわっとしたのを感じていた。 講義が全部終わると、月森はバイトに行くと言って早々に学校を出ていった。伊原も小遣い稼ぎ程度にバイトはしていたし、周りの皆も大体している事が多かったが、それにしても月森がバイトと言ってさっさと帰ってしまうことが非常に多かったので、3回に1回くらいはもしかしたら嘘なのではないかと伊原は密かに思っていた。学内にひとりにされてまだ帰る気にもなれなかった伊原は、羽ノ浦の研究室を訪れていた。ノックして入る前に、何となく隣の津村の研究室をちらっと見て確認する癖がついている。外からは何も分からない、朝賀がいるかどうかすら不明ではあるが、何となく伊原は毎回同じことを繰り返している。 「はーい」 ノックして扉を開けると、羽ノ浦はいつものように奥の椅子に座っていた。伊原は黙って会釈をすると、するりと研究室の中に入る。伊原の顔を見ると、羽ノ浦は眉間に皺を寄せていた。 「またお前か」 「先生に会いに来ました」 「ご苦労様だな、毎回」 ふうと小さく溜め息を吐かれて、伊原はいつも不思議になる。羽ノ浦は自分のことが好きだという割りにそんな素振りが全くない。何だかいつも適当にあしらわれているような気がする。羽ノ浦はこちらに背を向けて、パソコンに向かっている。伊原はここに来て、羽ノ浦と話したり、こんな風に羽ノ浦が仕事をしている時は勝手にコーヒーを作って飲んでいたりする。狭い研究室には小さいキッチンがついており、カップ麺くらいなら作って食べることができる。その構造も何度も訪れて勝手に探索しているうちに分かってきた。今日はどうやら仕事をするらしい背中をじっと見つめていたが、伊原はふらっと立ち上がってキッチンに向かった。羽ノ浦が構ってくれないとやることがないが、このまま大人しく帰るのも癪なので時間だけは潰してから帰るつもりだった。コーヒーでも淹れようとヤカンに水道水を入れ、火にかける。 「そうだ、お前、伊原!」 不意に名前を呼ばれて伊原はキッチンから顔を覗かせた。 「何ですか」 「何ですかじゃねぇ。お前、廊下から手振ってたろ、あれなに」 「・・・」 渡り廊下から見た時と同じように伊原は怪訝そうな表情をしている。あぁと声を漏らして伊原は一度キッチンに戻った。ヤカンの中で水が沸騰している。火を消し、用意していたフィルターの上から注いだ。こういう消耗品は羽ノ浦の私物で一度目は断ったが飲んでもいいと言われてから二度目以降は勝手に使っている。ゆっくり落ちるコーヒーをそのままにして、伊原はまたキッチンから羽ノ浦のいる部屋を覗いた。 「先生が見えたので嬉しくなってつい」 「無表情で言うな」 「すみません、俺あんまり感情が表に出なくて」 「・・・知ってる」 ふいと怪訝な顔のまま羽ノ浦が視線を反らす。伊原はキッチンに戻ってコーヒーを取り、部屋に戻ってきた。羽ノ浦はまた先程のように机に向かっている。その背中を見ながら伊原はコーヒーに口をつける。ミルクも砂糖も入れないブラックはとても苦くてなかなか量が減らない。一度羽ノ浦が眠気覚ましのためにそのまま飲んでいるのを見て、羽ノ浦はきっとそのままが好きなのだと思った伊原は、こっそりここに来る時だけはそれを真似している。我ながら健気でかわいいと思うが、羽ノ浦は全く気付く様子がない。頼めば時々手を握ってくれることがあったが、本当にそれだけだ。羽ノ浦は一度伊原を拒否した時と同じように、以降も伊原がいくら迫ってもひらりと交わすだけで効果が余りない。羽ノ浦が言う感情などでなく、もっと本能の部分に働きかけないと駄目なのか、考えながら伊原は彼と何がしたいのか自分でもよく分からなくなっている。 「そうだ、先生」 「何だよ」 こちらに背を向けたまま羽ノ浦が答える。 「先生あの時、沢山の女の子に囲まれてましたよね」 「そうだっけ?」 羽ノ浦の口調は惚けているというよりは本当に覚えがないみたいだった。そんな状況一日に何度もあるのだろう、そう思うとまた胸の中がざわっとした。 「先生、俺、あれちょっと嫌でした」 「・・・あれって?」 「先生が女の子に囲まれてにやにやしてるの」 「にやにやなんかしてねぇよ」 ははっと何が可笑しいのか羽ノ浦は笑い声を上げた。伊原は真っ黒いコーヒーをテーブルの上に置くと、立ち上がって羽ノ浦を振り返った。相変わらずこちらには背中しか見えない。 「先生、俺、ちゃんと先生のこと好きになってると思います」 「そういうこと一々報告してくるところがなんか・・・ちょっとお前ずれてんだよなぁ」 「駄目なんですか、違うんですか」 「まぁそんなに外してはないと思うけど」 言いながらちらりと羽ノ浦は伊原を振り返る。伊原はそれを見ながら少しだけほっとしていた。こうやって進捗状況を本人に確認するのもなんだか変な感じとは思っているが、他の誰かに相談など出来ないし、羽ノ浦に直接確かめるしか方法はない。 「それ飲んだら帰れよ」 また背中をこちらに向けて羽ノ浦は机に向かう。伊原は黙ってその後ろ姿を見つめていた。こうやってじりじり距離を詰めるのは得意ではない、何が正しくて何が間違っているのか、伊原にはよく分からないからだ。そういえば女の子と体の関係になるのも付き合ってから早かったように思う。拒否されたことがないので、伊原はそれが正しい形で、気持ちが動かぬ自分が彼女という名前の特別な女の子にしてあげられる特別なことだと思っていた。何となく今になってその認識は誤っていたのだとぼんやりと思うけれど、誰も今まで指摘してくれなかったので取り返しはもうつかない。過ぎてしまった彼女たちのことを、伊原はどうすることもできない。少しは後ろめたかったり後悔したりしているのだ、と伊原は自分のことながらそんな風に感じることのできる自分に、少しだけ驚いていた。コップの中のコーヒーをゆっくり飲む、これがなくなったら帰らなければならないので、ゆっくり時間をかけて飲む。羽ノ浦はこちらに背を向けたまま。 「先生、俺、帰りますね」 「・・・おう、気を付けて」 空になったコップをキッチンで綺麗に洗い流し、水切りのかごの中に入れる。羽ノ浦が使っているらしい大きめのマグカップがそこにある。見慣れぬものだった。 「先生」 「あ?」 「コップ、新しく買ったんですか」 羽ノ浦は手を止めたように見えたが、振り返らなかった。 「そうだよ、だからお前は小さいの使え」 そして小さく、そう呟く。

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