21 / 27

胸にナイフを刺したまま

「先生、最近伊原に絡まれてるんでしょ」 講義が終わった部屋の中、ホワイトボードを消すのを手伝ってくれた3年生の女子学生は振り向き様に羽ノ浦にそう言った。彼女がなんとなく自分に気があるのは分かっていたが、どこか咎めるような視線をするので、伊原との約束を彼女は知っているのかと思って羽ノ浦は内心どきりとした。しかしそれをそのまま表出して彼女を喜ばせたりなんかまさかできない。視線を反らすとあくまで冷静を装って、集めた出欠代わりのプリントを纏める。彼女の視線が背中に当たって消えない。仕方なく羽ノ浦は振り返って、壇上に立っている彼女を見た。やはり咎めるような視線は変わらなかった。 「絡まれる?何言ってんだよ」 「先生だって知ってるでしょ、アイツマジで最低なんだから、誰とでも寝るし」 「やめなさい、女の子がそんなこと言うの」 とんとんとプリントの端を叩いて揃えると、教科書を持って羽ノ浦は講義室を出た。彼女は電気を消して後をついてくる。やれやれと思いながら羽ノ浦はそれを邪険にはできない、まるで病気みたいに優しくしてしまうのが、若くて多感な彼女たちの何かしらの感情を刺激してしまうのは分かっていた。伊原だけが羽ノ浦の何がいいのか、半分以上は冗談だったそれを鵜呑みにして本気にして無表情で恋人気取りでいる。あの男が最低なのかはよく分からないが、彼女たちがそう言いたい気持ちはよく分かった。 「だってほんとだもん」 「だとしても、そんなこと言うもんじゃありません」 「ねぇ先生は何で伊原に絡まれてるの?」 話が転々としながら、彼女は自分の好奇心だけはしっかり満たそうとする。羽ノ浦はそれに溜め息を吐きたくて吐けないでいる。教職であるというだけで生徒よりよっぽど立場が悪い。それをこの子どもたちは理解してくれなくて困っている。伊原も同じだ。羽ノ浦にとっては伊原も彼女も他の生徒も余り変わらない。伊原が本質的に歪んでおり、不思議な思考をしているのは知っているけれど、それを加味してもまだ同じだと思える。何故伊原のことばかり考えなくてはいけないのだろうかと思って、羽ノ浦は負けたみたいで少し口惜しいような気がした。伊原が無表情で呟く、まさか恋人という名前のそれに、自分も染まっていくのかと思うと身震いがした。それこそ立場が悪い。誰にも何にも言い訳できなくなる。 「別に絡まれてねぇよ」 「うっそだー、最近伊原先生の研究室に入り浸ってるって専らの噂なんだからね!」 「えっ」 それは知らなかった。羽ノ浦は驚いて普通にリアクションを取ってしまい、それから慌てて取り繕った。伊原はただでさえ男前で目立つのに、良くない噂が広まっていて学校の中ではちょっとした有名人だ。月森だって相当隣の研究室を訪ねていると思うが、そんな話にならないあたり、やはり伊原を嫌悪しながらどこかで彼の行動を監視するみたいに見張っている彼女たちの存在があるのだと羽ノ浦は思った。それはいけない、良くない噂に自分まで付加されては困る、羽ノ浦は今すぐにでも伊原にもう研究室にくるなと言わなければならないと思った。考えただけで早足になる。懲りずに隣の女子学生はついてくる。 「先生、伊原何してるの、先生の研究室で」 「何って別に何もしてねぇよ、最近ちょっと雑用手伝ってくれてるんだよ」 適当に嘘を吐くと、彼女はあからさまに信じていない顔でふーんと相槌を打った。 研究室に駆け足で戻ったが、伊原がそこにいるはずかないことに気付いて、羽ノ浦は扉の前まできて息切れしながら愕然とした。伊原は決まって羽ノ浦が研究室の中にいる時にしか来ない。しかも先程までは講義の時間で、確実に羽ノ浦が中にいないことが調べれば分かる。いるはずもないのに何故焦って帰ってきているのだと思って、羽ノ浦はどっと疲れた。鍵を鍵穴に差し込むといつもと違う感触がして、まさかと思ったら開いていた。閉めるのを忘れたのか。私物も置いてあるし、気を付けているのだが、時々うっかり閉め忘れてしまう。いけない、考えながら羽ノ浦はするりと自身の研究室に入り込む。誰の目からも逃れてやっとほっとしたところで、来客用のソファーの上に誰かが転がっているのが見えた。 (・・・あの頭) 茶色の髪の毛が丸まっている。羽ノ浦は近づいてその正体を確認すると、ふっとやや大袈裟に溜め息を吐いた。考える手間が省けたことを感謝すべきなのか、それとも別の何かに眉を顰めるべきなのか。そこに転がっていたのは、さっきまで女子学生に散々に言われていた伊原だった。伊原がいつ入り込んだのか分からなかったが、そこで長い手足を器用に折り畳んで丸くなって眠っている。 (ほんとに寝てんのか) もう一度溜め息を吐いて、羽ノ浦は伊原の顔にかかっているやや長い髪の毛を退かした。白い頬か露になる。無表情も閉じていると少し彼を幼いように見せて、何だかいつもより毒気がないように感じた。白い頬には血の気がなく、すべやかに首に続き、鎖骨へと広がった後、そこからは無地のTシャツの中に入り込んでいる。誰とでも寝ると揶揄された伊原は、確かにその通りなのだろうが、その割にはそれを感じさせないくらい、やけに綺麗で清潔そうな体をしている。伊原にとって手を繋ぐこともキスをすることもそしてセックスをすることもきっと同じ意味しか持たない、だから彼には罪悪感が欠けていて、欠けているからこんなにあっさりしているのだろうと思った。その言動も、そしてそれを吐き出す体そのものさえも。 (起きない、寝てるな・・・) 触るのを止めて羽ノ浦は立ち上がった。あまり無防備な伊原相手にこんなことをしていると、たとえこちらにその気がなくても変な気を起こしそうだった。その気がなくても、羽ノ浦は自分に言い聞かせるようにそう胸中で呟く。起きてからもう来るなと言わなければならないと思ってくるりと伊原に背を向けると、後ろからくいと引っ張られて足が止まる。 「・・・やっぱり起きてたのか」 振り返ると伊原がこちらに手を伸ばして、羽ノ浦のスラックスを引っ張っていた。眠そうな目をしている伊原は、多分本当に先程までは寝ていたのだろう。触っていたのは分かったのだろうか、羽ノ浦は少しだけ後悔していた。伊原がそれを何と解釈して何と勘違いして何と言ってくるかは何となく想像がついた。面倒臭いがそういうやりとりはもう何十回としている。うんざりしながらそれに折れることのできない羽ノ浦が守っているのは間違いなく自分の立場に違いなかった。他の何かではない。 「せんせい、俺に何かした?」 「してないよ、安心しろ」 起き抜けの伊原は、眠っている時みたいに少し幼い気がした。それに構えている言葉が役に立たなくて、羽ノ浦は優しくしてしまってから何でこんなことしか言えないのだろうと思った。伊原はふーんと眠たい半分相槌を打つと、起き上がってソファーに座った。目を擦っている。羽ノ浦はほっとして伊原から離れると自分の椅子まで辿り着いてそこに腰を据えた。 「してもいいのに」 「しない、寝てる時にしたってつまらないだろ」 「起きてる時にも何にもしてくれない癖に」 どこまでが本心か分からない。振り返ると伊原はまだ眠そうな目をこちらに向けて、無表情の中に少しだけ怪訝な顔を忍ばせている。そんな顔をしたいのはこちらのほうだった。何故伊原がそんな顔をするのか分からない。羽ノ浦が答えに窮していると、伊原は目を擦りながら立ち上がって大きく伸びをした。まるで自室にいる時みたいな寛ぎ方だと思った。 「そうだ、伊原」 「なんですか」 「お前、もうここに来るな」 「・・・なんで」 流石に驚いたのか、綺麗な二重の目が広がって羽ノ浦を捉えている。 「お前、最近ここに入り浸ってるって噂になってるらしい」 「なんだ、でもほんとだから別にいいじゃないですか」 「いいわけあるか、変な噂立てられたら困るだろ」 「俺は困りません」 さっぱりした顔をして言い切る伊原に、他に何を言うべきなのか羽ノ浦は考えていた。何と言っても無駄な気がする、ゾッとした。 「ここで会わなきゃ、先生と接点なくなるじゃないですか。そんなのますます恋人なんかじゃない」 「あー・・・別に一切来るなって言ってるわけじゃない、頻度は減らしてくれ。今までみたいに毎日は来るな」 「先生は俺に毎日会いたくないんですか」 「・・・はぁ」 「俺は毎日会いたいのに」 言いながら首を傾げる伊原は、羽ノ浦の知らない生き物だった。言葉も仕草も安っぽい誰かの借り物。羽ノ浦は思わずそれに目を細めていた。 「なんていうドラマ?」 「・・・先生は俺のことを信用してない。誰とも付き合わずにこんなに一生懸命やってるのに」 「あー・・・」 「何もしてくれないし、このままだと俺は恋人って名前に飼い殺される」 「詩的だな、伊原くん」 「そうやってまた誤魔化す。大人って卑怯だな、先生」 いつもより幾分冷たい目をして、やや投げなりに伊原が呟く。流石に良心が痛んで、羽ノ浦は小さく息を吐いた。分かっているのだ、彼が不器用なりに何か一生懸命自分と恋人をやろうとしているのは、見ていて可哀想になるほど律儀にやっていると思う。しかし多分、根本的に伊原は何か間違っている。恋人はそんなに一生懸命するものではない。伊原のそれは外面ばかりを取り繕って、結局中身が空っぽだ。感情論を説くと、彼は無表情で分からないと呟くだけだ。欲情してそのまま彼の一番分かりやすいと思っている方法をとるのは容易い、おそらく容易いと思う。羽ノ浦は先程の伊原の白い頬を思い出して、小さく舌打ちをした。あんなに簡単に大人の欲情を煽ることばかり覚えて、一体どうするつもりなのだろう。その一番分かりやすい方法では、彼の手を一度温めることができなかった女の子たちと同じになってしまう、それでいいのか。 (そもそも何で俺は伊原相手にこんなに色々考えてんだろ) 当事者ではなかったのに、当事者なんかになるつもりではなかったのに。ソファーの前で俯く伊原は、無表情だったが傷付いているのは分かった。もう羽ノ浦は伊原にまつわるそういうことが色々、言葉を介さなくても分かるようになっているのだ。厄介なことに巻き込まれてしまっている。最初に首を突っ込んだのは自分だったのかもしれないが。考えながら羽ノ浦はゆっくり俯いたままの伊原に近づいた。気配を察知してぴくりと伊原の肩が動く、ゆっくり顔を上げるとやっぱり伊原は無表情だったが、よく見ればその奥に期待と果てのない不安が広がっているのが分かる。羽ノ浦には分かるようになってしまっている。 (馬鹿だな、なんでそんな、俺に期待した顔するんだろう) 避けるかと思ったが、伊原は動かなかった。伸ばした手がそのまま伊原の頬に触れて、伊原は少し驚いたように目を細めた。ゆっくりそれを撫でる。先程目を閉じてソファーに丸まっていた伊原の無防備な表情が思い出された。真っ白かったそこが、僅かに赤みを帯びてやはり伊原は生きているのだと思った。そして分からないなりに、何かを感じることもきっとできるはずだと。 「・・・なに、先生」 「別に」 「触るんだったらもっとちゃんと触ってほしい」 「うるさいな、可愛い気がないよ、お前は。もちょっと勉強しろ」 呟くと伊原は笑って、伊原も伊原なりに笑ったり悲しんだりするわけで、伊原なりにはおそらく笑っているつもりで、頬を撫でる羽ノ浦の手を上から軽く押さえた。 「先生、俺のこと好きだって言って」 「・・・好きだよ」 彼と自分の間にある、何がどこまで本当で、どこからが偽物なのか、羽ノ浦にはもう分からない。本当はどちらもないのかもしれないなんて思うことすらある。ただ伊原が俯いたままそれに少しだけ口角を上げるのが、ただ見たくて羽ノ浦はそう囁いている。

ともだちにシェアしよう!