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ようこそ、新世界へ Ⅰ
そういえば、朝賀が自分の家にやって来るのははじめてのことだった。いつも会うのは研究室か、朝賀の部屋が多かった。外で食事をすることもあったが、朝賀が可哀想なくらいそわそわして気忙しいので、最近はめっきり減っている。月森にはよく分からないが、朝賀には教育者としての自身の立場が、例え研究助手といえどもあるらしかった。何の話をしていた時だったか分からないが、朝賀が月森の部屋に行ってみたいと言い出し、月森は朝から部屋を掃除する羽目になっている。そういえば一度も呼んだことがないことを、月森は朝賀に言われるまで気付いていなかった。別段隠すこともないし、朝賀の部屋はもう、目を瞑っても歩けるくらい熟知しているので、朝賀が行きたいと言った時、月森には断る理由がなかった。強いて言えば、掃除が面倒臭いくらいのことである。月森のアパートは大学からほど近いが、朝賀のマンションとは逆方向で、駅からは少し離れている。もっとも月森の移動手段がバイクだったので、あまり気にしたことはない。駅から離れている分、少し家賃が安いことのほうがほとんど親の仕送りで生活しているといえども、月森にとっては重要なことだった。そのお陰で友達は大体皆ワンルームで狭苦しく生活しているようだが、月森のアパートは狭いながらふたつ部屋がある。友達を呼ぶと皆それに驚いて帰ることが多い。しかし朝賀のマンションはセキュリティーがしっかりしていて清潔で広くて、やっぱり社会人は違うなぁとはじめの頃は月森も感心したものだった。もっとも部屋が広く見えるのは、朝賀の部屋には必要な物しかないからだ。朝賀の部屋は、元々物の少ない殺風景な部屋だったが、最近は月森が私物を置くようになってそれらしい生活感が出てきた。それを朝賀がどう思っているか知らないが。
(・・・こんなもんか)
ある程度片付けが済んだところで時計を見ると、そろそろ朝賀がやって来る頃合いに丁度なっていた。月森がジュースを飲みながら休憩をしている時、部屋のインターフォンが鳴って、朝賀がやって来たのだと分かった。その扉を開ける一瞬、不思議なことに月森は少しだけ緊張した。もう朝賀のマンションに行く時に緊張したりはしないけれど、何故かその時、自分の部屋にいるのに、月森は不思議に指先が震えるのを感じた。扉を開ける前に玄関にある鏡で髪の毛と服装をチェックする、可笑しなところはどうやらなさそうである。月森はドアノブに手をやって、それに返事をしながら扉を開けた。
「・・・月森くん・・・おはよう」
「いらっしゃい、朝ちゃん」
扉を開けるとそこにはやはり予想通り朝賀が立っていて、分かっていたけれど月森は朝賀の姿を確認すると、何故か少しだけ安心した。朝賀は月森と視線を合わせると、もう昼を過ぎていたがそう挨拶をした。朝賀はいつも学内では襟のついたシャツを着ており、ネクタイをしている時としていない時があったが、大体教職らしい格好をしていた。部屋ではさすがにかっちりした格好はしていなかったが、黒かグレーのシンプルな服装が多かった。その時朝賀は部屋で見る時みたいにシンプルな黒のカットソーを着ていて、それはいつか見たことがあるような気がしたが、一方でひどく新鮮に思えた。朝賀はあることないことで俯いていることが多かったが、今日はしっかり上を向いていて、出てきた月森を見て、にっこり笑った。朝賀がそんな風に笑っているのは珍しい。思わず抱き締めそうになって月森は慌てた。いつもと何が違うのかよく分からない。
「お邪魔します」
機嫌がよいのか、少しだけ朝賀の声はいつもより高く聞こえた。月森は口の中でどうぞと言ったが余りにも小さく、それが朝賀に聞こえていたかどうか分からない。目の前で朝賀が俯いて靴を脱いでいる。襟足に隠れて日が当たらないうなじだけが、真っ白くて月森は目眩がするかと思った。今日は一日が長いから、朝賀に触るのはちゃんと夜になってからにしようと月森はひとりで決めていた。何もかもなし崩しに色々してはいけないと分かっているし、覚悟しているつもりだった。テスト期間中双方忙しくて余り会うことができなくて、そういえばこうしてふたりきりで会うのは久しぶりのような気がする。
(・・・何もしないからちょっとだけ)
しかし朝賀の姿を見た途端そんな決意も揺らいで、月森はわずかに恥ずかしい気がしたが、熱を持った指先は震えている。俯いて靴を脱いでいる朝賀を、月森は後ろからぎゅっと抱き締めた。急に抱き締められて驚いたのだろう、びくりと腕の中の体が跳ねたのが分かった。ちょっとだけ、と自分に都合のいい言い訳をして、目の前の白い皮膚にそっと唇を落とすと、そこにさっと熱が広がる。このまま反転させてキスがしたい、そしてそのままベッドまで引っ張って行きたいと思ったけれど、月森は唇を噛んでゆるりと腕を解いた。それとほぼ同時みたいに、朝賀は月森が先ほどキスを落としたところを押さえて、くるりと振り返った。
(・・・真っ赤だ・・・かわいい)
朝賀は眉を吊り上げてどう見ても怒っているのに、月森はぼんやりそう思う。
「つ、月森くん!」
「ごめん・・・なんかちょっと・・・ついムラッとしてしまいました」
「こんな昼間から何言ってるの!」
「・・・はい」
全く朝賀の言うとおりだと思いながら、月森はそれにしゅんと頭を垂れて返事をした。きっと朝賀はそう言うに決まっていたから、だから今日は頑張って夜まで待つのだと月森は誰に言うわけでもなく決意していたが、姿を見た途端これでは先が思いやられる。性欲ばかりが先行していては、いずれ朝賀に呆れられるに決まっている。もう半分くらい呆れられているのかもしれないが。真っ赤になって怒る朝賀をなんとか宥めて、話をすり替えながら、月森は朝賀の為に部屋の扉を開けた。
「狭いけど、どうぞ」
「・・・わぁ」
部屋の中に入ると朝賀は先程まで怒っていたのをすっかり忘れたように、その目を見開いてきょろきょろしている。綺麗に掃除をしたはずだし、何のやましいものもないはずだが、朝賀の目にはどう映っているのだろう。そればかりが気になり、自分の部屋だが何だか落ち着かない。逆に自分が朝賀の部屋にいる時、朝賀はこんな気持ちなのかと思うと、最近入り浸り過ぎて申し訳ないと月森は反省した。朝賀は座りもせずに狭い部屋の中央に立って、物珍しそうに月森の部屋を眺めている。
「あんま見ないでよ、照れるから」
「あ、ごめんね・・・でも月森くん立派なところに住んでるんだねー、へぇ・・・」
「やめてよ、朝ちゃんとこのほうが広いじゃん」
何が物珍しいのか分からないが、まだ立っているままの朝賀をとりあえず座らせて、月森は冷蔵庫から先ほどまで自分が飲んでいたジュースを出してコップに注いだ。一応朝賀は座ってくれたが、その状態でまだ部屋の中をきょろきょろと見回している。
「はいジュース」
「あ、ありがとう、なんかすごいな・・・」
「何がすごいの?フツーの部屋だよ」
「はは、そうかもしれないけど」
朝賀が声を出して笑って、やっぱり今日はいつもよりテンションが高いと月森は思った。よく喋るし、よく笑う。月森には何がそんなに朝賀を興奮させているのか分からないが、朝賀がこんなに機嫌が良くて楽しそうなのはひどく珍しいと思った。
(・・・笑った顔、やっぱかわいいな・・・)
何でもないただの安売りだったジュースを飲んで、朝賀は月森と目を合わせると少し照れたように笑った。その頬は僅かに上気していて、目は見たことがないくらいきらきらと光を取り込んで光っている。本当に朝賀は今日どうしてしまったのだろう、笑う朝賀にどんな顔をしていいのか分からないで、月森は曖昧な表情しかできない。いつもと立場が逆だと胸中で自嘲する。
「月森くん月森くん」
「なに?」
「あの棚の上にあるの、あれなに?」
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