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『嘔吐』第3話

お客さんつきましたよ、と運転手が声を掛けてきたが、やっぱり動くのが億劫で身動きさえも取れそうになかった。 頭の中じゃ、繁華街で時折見かけるぐでんぐでんに酔い潰れた客を介抱する憐れなタクシー運転手の光景が再生されていて、そうはなりたくないと切に願うけれど全く体が言う事を聞いてくれない。お客さーん、と困った様な呆れた様な面倒臭さも滲む声が再度聞こえたが、やっぱりダメみたいだ。 「お釣りは結構です。運搬有難うございました」 こんこんと窓ガラスを叩く音の後で、多分助手席の窓が開けられて、聞こえたのはさっき俺の事をタクシーに突っ込んでどこかへ行った男の声で。 あ、セオさんだ、と。 ごちゃごちゃな部分が嬉しさと苦しさを感じる間に引きずり出されて、また担がれて無理に立ち上がらせられた結果の反動として少し治まっていた吐き気が蘇ってくる。 もういやだ、俺の心も体もずたぼろだってセオさん、ごめんなさい、すんません。無理です。 「よく吐かずに堪えられましたね」 ふっと鼻で笑う音と死ぬ程優しい声調に全身が粟立って半狂乱になりそうな俺をよそに、セオさんはずるずると俺の事を引っ張りながら歩いていく。 おニューの靴が擦れてぼろぼろになってる気がする、と漸くまともに動き出した思考が全く見当違いな事を考え出した頃、エレベーターの到着を知らせる音が頭に響いた。 嗚呼、もしかしてここってあそこですかセオさん、もしかしてもしかしなくても、ほんの数時間前までは俺んちだったところですか。 頭の中ぐるぐるぐるぐる回る言葉は結局言葉にはなり切れずに頭の中に居座っていた。 エレベーター特有の浮遊感の中で一生懸命、喉元までで吐瀉物を抑えて息苦しさとか現状の意味のわかんなさとかで涙が出そうになる。 零れる前に目的階への到着を知らせるポーンという音に助けられた、ってのも束の間でさっきより歩調を速めたセオさんの所為で乱暴に揺すぶられる胃と脳みそが、吐き気の限界点を一気に狭めてきた。 がちゃがちゃと珍しく焦った様子で解錠されて、靴を脱ぐ事無く踏み込んだ室内で一番に押し込められたのが便所で俺はとても安堵した。 「ッかは、ぅげ、えぇッ……くはっ……、」 便器の前にしゃがみ、水面ギリギリの所まで顔突っ込んで、これまでずっと我慢していたものをじゃばじゃばと全て吐き出した。胃が大きく波打って吐き終えた後も気持ち悪い。 それでも、今までが嘘だったかの様にすっきりした世界で我に返ると同時に立ち上がろうとした俺を、背後から回ってきた腕が制止した。 セオさん、 「あぐ、ッッ……うあ゙、ぁ…っ、ごふ、ッ」 腹に回された腕にきゅんと胸が絞られる様なときめきっぽいのを感じた刹那、ぐっと腕が腹に食い込んで来て二度目の嘔吐。 え、なんで、嘘、だろ。 全部を吐き終えた筈なのに、まだどろっとしたものが便器の中にぶちまけられて驚愕とか何やかんやで目を開く。 「ちょッ、あ゙ぁ……うぐぇ、げェ、」 出し終えて休む間もなく力を込めようとする腕を振り払おうとするも、強引な圧迫はそれを許さず、三度目の嘔吐を促されるが儘に胃の中の物を吐き出した。最後の方は胃液交じりのさらっとした液体だった。 四度目の嘔吐を促される事はなかったが、すっかり息が上がって立ち上がる事が出来ない。 その間にするりと抜き去られた腕が名残惜しい。待って、もうちょっとそのまんまで居たかった。 反して、ちっとも名残惜しくなどない目の前にてんこもりな吐瀉物がじゃばじゃばと水流に流されて沈んで、きれいな水に変わるのを眺める。流してくれたのはセオさんだ。 しかし、先程まで背後にあった筈の気配がなくなった事に気が付いたら、嗅ぐだけで吐き気を催す悪臭が立ち込めた便所で、遂に溢れ出した涙を止める理由も止める方法もなくて静かに泣きながら身動きがとれなくなった。 「急性アル中にでもなるつもりだったんですか」 突然、これで口すすいで、と座り込む俺の肩越しにミネラルウォーターのボトルが渡される。 タクシーを降りた時から数えて二言目のセオさんの言葉はやっぱり死ぬ程優しくって、意味が分からなくって戸惑うしかない。おかげで涙は止まったけど。 おまけにさっきから何かと絶妙なタイミングすぎて、ブレない優しさを垣間見てしまった気がして、本当につらい。急性アル中になりたかった訳じゃないんすよ、ただ意味分かんなくなったから全部ごちゃごちゃになりたかっただけなんです。 「気持ち悪くないならすすがなくてもいいから。行きますよ、いつまでトイレに居座る気なんですか」 「い、や、……すすぎ、ます」 未開封だったペットボトルの蓋を回して口の中に含んで、すすいでから便器に吐き出すという行為を三回繰り返した後に、カラカラな喉を潤す為に少しだけ飲みこんだ。 まだふらつきが残る体を引きずり上げてトイレを後にしようとした時にはセオさんの姿はなくて肩を落とす。 セオさんは優しいけど優しくない。 飲み掛けのペットボトルを片手に、尻ポケットから財布を取り出してリビングへと向かう。財布落としてなくて良かった。 部屋の中に充満する香りが、数ヶ月間一緒に住んだ事により鼻に染み付いていて妙に安心してしまうのが癪だった。

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