7 / 18

『嘔吐 -Another-』第1話

なかなか寝付けずに何度も寝返りを打ってみる。疲労困憊の身体は睡眠を欲しているのに、睡魔ももう手の届く距離にいるのに、目がギンギンに冴えている。 彼は今日もリビングのソファで寝るんだろう。肘掛けに頭を乗せてはみ出した足をぶらつかせて、寝心地の悪さなんて気にしないふりをして。 そんなに一緒に寝たくないのか、なんて考えてみたって彼の事は彼にしかわからない。 本当は気付いている理由に僕は素直に向き合う事が出来ない。 自社のOA機器をリースしている小さな出版社と同じビルの1Fで、彼はアパレル店員として働いていた。 メンテナンスが終わって会社に戻ろうとするスーツ姿の僕に「おにーさんスタイルいいっすね、ラウンドウィステリアの黒のスキニーとかちょー似合いそう」なんて店頭にしゃがみこんだ儘、煙草を片手に声を掛けてきた。 それから時々一緒に煙草を燻らせる仲になって、さらに時々一緒にラーメンを啜る仲になって、一緒にバーへと足を運ぶ仲になった。 そんなある日、「セオさん聞いて、俺、家無くなっちった」なんて耳を疑うような事を出会った時と同じ店頭にしゃがみこんだ彼はへらへらと笑いながら報告してきた。 なんでですか、とか、今どうしてるんですか、とか僕が聞くより先に「なんか家に帰んのがめんどーになってそこの駅前のネカフェに泊まり込んでて、家賃とか払ってなかったんで、まぁ追い出されましたね、別にでーじょーぶっすけど」と語ってくれた。なんか独り暮らし、寂しくなっちって、とへらへら笑う彼に「それなら家に来ますか?」と耳を疑うような事を言ってしまったのは僕の方。 当時、まだ僕がゲイである事は隠していて、ノンケの彼は僕の下心なんて疑う事もなく「え、いいんすか、まじっすか、俺まじで行くっすよ。え、セオさんと暮らすの、なんかよくわかんねーけどすげー面白そう嬉しいマジで行く行きたい今日でもいい?だめ?今日!」と、はしゃいでたっけ。 「俺ね、ダメなんすよ、さびしーとさ、なんつーかさ、まあとにかくダメなんすよダメんなっちゃうっつか、まあ元々ダメなんすけど、よりダメになるっつーかね。セオさんは分かります?コレ、」 「分かりますよ、僕ももう独りが長いので」 遠い日の記憶を手繰り寄せて、彼が転がり込んできた日の夜にビールを片手に語らった事なんて思い出しても、何も変わらない。やっぱり彼は今日もリビングのソファで寝るんだろう。 一つ屋根の下で男二人、一緒に暮らしている筈なのにお互いに違う仕事をしていて、帰りの時間も違って、朝と夜の少しの時間だけ顔を合わせたり寝顔を見るだけで終わったり。 独りでいた時より、独りで暮らしていた時より、ずっとずっと寂しく思うのはどうしてだろう。恋人である筈の彼と一緒にいるのに、一緒にいる気がしないのはどうしてだろう。 ノンケの彼に、──・・・・・・どうしても手が出せなかった。 手を出す勇気がなかった、拒絶されるのが恐くって、なんて言ったら彼は何と言うんだろう。 腕の中で眠るぬくもりを手放して、夜中にベッドを抜け出して、惨めにトイレで欲を吐き出しては右手を汚す白濁に何度も何度も情けなさを覚えた。 時折腕を解いて、夜中にベッドを抜け出して、トイレから暫く帰って来なかった彼に、何度も何度も申し訳なさを覚えた。 布団を撥ね退けて、リビングへと向かう足取りはどことなく重たく感じられた。それはまるで今の僕の心のようで、心臓に肺に足の裏に石を詰められたみたいだった。 リビングのソファではやはり彼が横になっていた。 パチン、と電気をつけると眩しそうに顔を腕で覆う彼を見て、まだ起きてた、と確信して声を掛ける。 「そこで寝るの」 「──・・・・・・、は、い」 思いの外冷たい空気を纏って口を突いた言葉に、眠そうで気怠そうで少し掠れた声が返事をした。 本社で会議だからと着込んでいった彼のスーツやYシャツが無造作に散らばったリビングは、最早彼の縄張りのようだった。 僕の家なのに、なあ。あちらこちらに彼がいる。当たり前のように、彼がちらばっている。 愛しいはずの彼がてんでばらばらで、僕を乱している。 「どうして?」 「なんつーかもう、ここで寝るのが定着したっていうか、」 苦笑いを含んだ言葉が拒絶に聞こえた。違う、きっとそうじゃない、でも、わからない。わからないよ、ぜんじろーくん、 「意味がわからない」 「わからなくねーですよ、別に。考えたらわかる事じゃねーですか」 「それは君が僕の事を嫌いだと捉えてもいいって事」 漏れ出た言葉はやっぱり感情も色も何も表現できずに淡々としていて冷ややかで、起き上がった彼が嫌悪の滲む眼差しで睨みつけてくるのが痛い。 「そう思うなら、そうなんじゃねーですかね」 「やっぱり意味がわからない」 「わかんねーならわかんねーでいいんで」 「別れますか」 「何なんすか、いきなり」 僕の言葉を皮切りに互いの不平や不満が濁流のように溢れ出た。まずい、と思った時にはもう何もかもが遅くて乱暴な言葉が飛び交うドッジボール。 「なん、で、何もしてくれねーんすか、なんでっすか。俺ってそんなに魅力ねーっすか、まぁそうっすよね家無しみてーなもんだしね、年の差もあるしどうせ腹の底じゃクソガキなんて思ってたんだろ、情けっつーんすか?そーいうんで置いててくれただけなんすよね、俺が惨めだから。一緒に寝りゃさ、やっぱセックスしてーなって思ってた訳じゃないっすか、たぶん俺もセオさんも。でもさ、ナニするでもねーし、俺わかんねーんすよ男同士でナニするとかどーするとか。んで寝不足になるくらいならって別に寝始めたんだって、それの何がダメなんすか。っつーか男と付き合うとか住むとか無理だったのかもしれないっすね、女と一緒に住むよりうんとマシかと思ったら、男と住む方がよっぽど惨めでさびしーだけじゃないっすか」 饒舌に捲し立てた後で彼はテーブルの上の財布をジーンズにねじ込んで部屋を出た。 バタン、と玄関扉が悲しく音を立てて閉じるのを遠くに聞いて漸く我に返って溜息が零れる。 付き合い始めて4ヶ月、大喧嘩。 薄手の布団がぐちゃぐちゃになって丸まっているのを押し遣って、ソファに腰掛けるとまだほんのりと温かかった。 言いたかった事を何一つオブラートに包む事なくぶつけ合ってドッジボールして、全治3ヶ月、いや全治1年の大怪我を負った気分で。 本当はすぐに彼を追い掛けて、ごめん、ちゃんと話し合おうと紳士的な対応をするのが大人の男としての模範解答なんだろうけど、グサグサとめった刺しにされた胸が痛くて身動き出来ない。 って、言い訳がましいね、ごめんね。 ごめんね、ぜんじろーくん。 本当のところ、ノンケの彼をゲイの道に引き込んで責任を取れる程の覚悟は何一つ出来ていなくて、まだ学生だった頃に向こう見ずに好きだった同級生に告白して撃沈なんて、都市伝説みたいな過去が僕にもあって。また同じ事の繰り返しをしているみたいで、同じ世界線をずっとループしている気分で。でもそれは彼には関係なくて。想い合った筈なのに、好きだった筈なのに、そこには確かに性別を超えた愛たるものがあった筈なのに。 ぐしゃぐしゃ。 機器をメンテナンスする毎日にやりがいを見失って、独りぼっちの部屋と会社を行ったり来たりするだけのつまらない毎日に飽き飽きしていて、寂しくて。 丁度好く捨て猫を拾うみたいにノンケの男をひっかけて、扱いが分からなくて考えあぐねている内にうっかり脱走されました。でも飼いきれないから丁度好かった、どうか元気で、いい人に拾って貰ってね。 放心。 って、無責任だな、僕。 乾いた自嘲がやけに部屋に響いた。 携帯。連絡、しないと。迷子だ、たぶん。でもネカフェにいるかな、駅前の。 また重みを増した足を引きずるみたいに寝室に向かって、枕元のスマホを拾い上げる。 “画像” “瀬尾くん、もしかして禅くんと喧嘩しました?笑” “画像” “画像” “今から来れませんか?” “やばいかも” “画像” 新着通知7件。送り主は行きつけのゲイバーのマスターであるムラサキさん。 バナー通知に表示された文字を目で追って慌ててロックを解除してSNSを開く。 表示される画像の中に、未だ治まらない怒りを露に仏頂面でカウンターに座る彼の横顔があった。 テキーラボトルの向こう側でショットグラスを煽る姿。 見るからに量が減ったテキーラボトルと顔を覆って頭を抱える姿。 突っ伏す金髪の隣に添えられたチェイサー。 お酒なんて滅多に飲まないクセに、飲んだらすぐに潰れるクセに。物分かりが悪い頭でガバガバ深酒して二日酔いになって「頭痛い」ってぼやくクセに。物覚えの悪い頭じゃ飲み方もまだ覚えきれてなくていつも飲みすぎて「セオさんセオさん好きっすよちゅーしましょう」なんてでれんでれんになっちゃうクセに。「こんなんなるの、セオさんの前でだけっすもん。セオさんだけなんすからね特別っすよ、わかってるんすかねえ」なんて目一杯甘えてくるクセに。酒の勢いで「好きになったかもしれない」ってぼやいた僕に「付き合っちゃえばいいんじゃないっすか、俺も好きっすよセオさんのこと」って向こう見ずに返事しちゃうくらい流されやすいクセに。そんな所でそんなの飲んで、後ろにいるヤリチン共が見えてないんですか、見えてないでしょうね背中向けてますもんね。そいつら手が早いって有名なんですよ、新人食いが趣味なんです、お手付きはイヤだって悪趣味丸出しなんです。いつも獲物を狙うみたいに君の事見てるじゃないですか、そんな連中の前でそんな姿見せちゃダメです、ああだめだ、もうだめだ、好きだ、やっぱり好きだ。独り占めにしたいのに、丁寧にとっておきたいのに。大切にとっておいたのに。 ぜんじろーのばか。 二人乗りのバイクに跨ったって、ぐでぐでの君は連れて帰れない、でもタクシーを呼んでる時間も惜しい。早く迎えに行かないと。 タクシーの配車センターに電話を掛けながら、財布を探してバイクのキーを引っ掴んで、焦りで言う事を聞かない手で施錠して。 「タクシー1台、2丁目の哀憐キネマにお願いします」

ともだちにシェアしよう!