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『嘔吐 -Another-』第3話

何とか持ち堪えた彼を引き取って、エレベーターに乗り込んで、覚束ない手でガチャガチャと音を立てて開錠して、やっとの思いで戻ってきた自宅に足を踏み入れるや否や彼をトイレに押し込んだ。 「ッかは、ぅげ、えぇッ……くはっ……、」 切羽詰まった動きで便器に顔を突っ込んで我慢していたものを吐瀉するのを眺めながら、唇を噛み締める。嗚呼、ごめんねぜんじろーくん。 荒く浅い呼吸を繰り返すのに、立ち上がる意思を見せる彼の肩をぐっと押し下げて背後に回って腹部に手を回す。 「あぐ、ッッ……うあ゙、ぁ…っ、ごふ、ッ」 昔見た何かの映像を思い出して見よう見真似で鳩尾の下に拳を当てがって思い切り突き上げると、まだ胃の中に残っていたであろうどろりとしたものが便器に流れ込む。むわっときついアルコールと酸っぱい匂いが広がった。 が、まだ、だ。 「ちょッ、あ゙ぁ……うぐぇ、げェ、」 位置は合っていた、勢いも問題ない。一度目と同じようにもう一度腹部を大きく圧迫して嘔吐を促すと素直に吐き上げられた吐瀉物が、最後にはさらりとした胃液に変わったのを確認する。 意図しない2度の嘔吐ですっかり息が上がって肩を上下させている状態の彼を開放して、水洗レバーを捻るとジャバジャバと音を立てて全てが洗い流された。 ──……水、持って来よう。 この期に及んでもまだ考えが纏まらないのが憎い。ごめんね言い過ぎましただとか、君に手を出すのが恐かったんですだとか、どうしてあんな所に行ったんですか、だとか。言いたい事も聞きたい事も山ほどある。でもどの順序でどう伝えればきちんと正しく伝わるだろう。もうずっとぐっちゃぐっちゃですよ、僕。カッコ悪いですよね。 冷蔵庫からキンキンに冷えたミネラルウォーターを取り出してトイレに戻ると、彼はぐずぐずと泣いているようだった。 「急性アル中にでもなるつもりだったんですか」 極めて優しい声色を意識して声を掛けたけれど、えぐえぐ泣く彼からの返事はなくて。嗚呼、どうしよう、困ったなぁ、なんてぼんやり考える。 何だかやけに小さく見える彼が、何だかやけに好きで、何だかやけに恋しくて。 「気持ち悪くないならすすがなくてもいいから。行きますよ、いつまでトイレに居座る気なんですか」 今日はベッドで寝ませんか。狭いなぁ、なんて思いながら、今すぐ裸で抱き合って夢中になって貪り合って、今まで我慢してた分、全部全部吐き出して、2人でベッドで寝ませんか、ねえぜんじろーくん。 「い、や、……すすぎ、ます」 少しの間の後で、狭い空間にガラガラの声が情けなく響くから、僕の計画もガラガラと音を立てて崩れていく。 ああ、やっぱり今日はダメだなやめときましょう。全治1年の僕よりうんと弱って死にそうな君を、優しく抱いてあげられる程の余裕なんて無さそうなんで。 えっちしたい君の中に潜り込んで全部全部独占したいしたいってギラギラ輝く目を瞼の下に隠して、無理くり朝を迎えましょう。 それじゃ今までと何一つ変わらないって君はまた怒るかもしれないけれど、いつもみたいに間延びした耳心地のいい声に戻って、くしゃくしゃ笑う無邪気な君に戻ったら、そしたらいっぱい愛でてあげるから。 少しだけ目を閉じて大丈夫と、自分に暗示をかけてリビングに踵を返す。 ど真ん中に鎮座するソファに腰を落ち着けながら、やっと冷静さを取り戻し始めたのに、君ときたら、 「セオ、さん。飲み代とタク代、あとこの水代払います」 なんて他人行儀に言うもんだから。 今まで飲み代とかタクシー代とか、水代とかそんな事言わなかったじゃないですか。 「要りません」 「や、でもその、迷惑掛けたし。すげーみっともないとこ助けて貰ったし、わりーじゃないですか。恋人でもねーのに、」 要らない、というのに引かないなんて、らしくないですよ。ああ、物分かり、あんまり良くなかったっけ。 続く言葉は凡そ、別れたのに、ですよね。やっぱり有効ですか、あの別れ話。痴話喧嘩の域は超えちゃっていましたか。 「ダブルベッドを買おうと思ってます」 全く見当違いな事を返したのは、せめてもの抵抗です。これからも君と一緒に暮らす為に、君と少しでも快適に暮らしていく為に、まずはベッドを買い替えようと思いました。 そうしたらきっと初めてのえっちだって、広々と快適に楽しめそうじゃないですか。たぶんそんな余裕、僕にはないですけどね。 それに君はもう、出ていく気満々で、そんな機会には恵まれないかもしれませんけど。 そうですか、と言う君に、だからまだシングルベッドで我慢してと言い残して重い腰を上げる。 もうなんだか、ぼう、としてしまって心も身体も本当に疲れ切ってしまっていて。とにかく今日の所は寝てしまいたかった。 君がソファで寝ても文句は言いません、でも明日、明日になったら、ちゃんと仲直りしましょう。だからもうどこにも行かないで。 今まで考えた事、思った事が全部正しく君にテレパシーででも伝われば、何の誤解もなくスムーズなのにな。 寝室の扉を開いて、閉じる間際に手を挙げて、 「ご自由に」 と言うのがやっとだった。おいで、と言えれば良かった。 パタン、と静かに扉を閉めたけど、そのままベッドに直行できずに壁に凭れ掛かる。明日の朝、君がいなかったらどうしよう。 いつの間にか考えるばかりで、思うばかりで、言葉を上手に紡げなくて、本心を隠す為に敬語を喋り始めたのはもうずっと昔の事。 また、僕は上手に伝えられなかった。 はぁ、と深く息を吐き出した刹那、壁の向こうから覚束ない足取りの、ばたばたとした足音が近付いてくるのを聞いた。 まるで突っ込むみたいに飛び込んできたのを咄嗟に引き寄せて腕の中に閉じ込めて、まだ高い体温と、酒臭い体をまるごと全部ぎゅうぎゅう抱きしめる。 どうしたんですかそんなに焦って、なんて頓珍漢な事を思うのに、だめだ愛しい。 「ちゅーしていい?」 すきが胸の中に広がって充満して窮屈で、キスしたいなと思ったんです。 やっと1つだけ、君に正しく僕の思いを伝える事ができました。 「……、ずりーです、そういうの」 知ってる。だから、…──。

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