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奇跡

例の冷凍室から青花の身体が冷蔵室へ移された。ゆっくり解凍させることで細胞へのダメージを抑えるのだ。 例えば冷凍した牛肉や豚肉を解凍するとき、少なからず赤っぽい水が出てくる。水を凍らせた時細胞内に氷の結晶ができ、その結晶は細胞を破壊する。 解凍した時に流れ出てくる水の量こそ、冷凍時にできた結晶の量であり、同時に壊れた細胞の量なのである。 つまり―― 「その液が出てたら青花は……もう目を覚まさない。ということですね」 「そういうこと」 俺は無理を言って解凍のその場に立ち会わせてもらっている。 解凍が決定されてから計画を立てるのに二年、青花の身体を以下に傷つけずに元に戻すか、名のある医師たちが全国から集まり盛大な話し合いが行われたのだ。 解凍には目安で1週間、状況によっては伸びたり縮んだりも考えられるという。 仮眠室を借りながら様子を見ていたうちに、あっという間に一週間が経ち、予定通り青花の身体の解凍は完了した。 担架で青花の身体が入った袋を運び出し、袋にハサミが入れられた。 縦に長く切れ目を入れて袋を広げると、懐かしい姿があった。穏やかな顔で眠っている。 「青花……」 身体の下や表面などくまなく調べられていく。 青花の身体を診ていた中村医師は、 「今のところ問題は見られないね。ここからはちょっと秘密道具を使うから後で報告するよ」 と言って、数人の医師と共に青花の身体を担架に乗せ、再び奥の部屋へと消えていった。 その日は連絡が来ず、休憩室で仮眠を取り、翌朝、部屋に瑛二が駆け込んできた足音と声で目を覚ました。 「早く起きて!橘のところに行くよ!」 飛び起きて瑛二のあとをついて行くと、そこは病棟の最上階最奥の特別室。 部屋の前には青花の両親が抱き合って泣いていた。 俺の存在に気付いた誠さんが菫さんの肩を叩く。 ハッと振り返った菫さんが駆け寄ってきて一言だけ絞り出し、泣き崩れた。 「青花が……!」 慌てて病室の扉を開けるとそこには管がいくつも繋がれた青花の姿があった。 痛々しい程の見た目に衝撃を受け、足の感覚が薄れていった。 「青花……」 ゆっくり近寄り、ベッドサイドから手を握る。瞬間、涙が溢れ出した。 「なあ瑛二」 「……ん?」 「青花、生きてる……!」 「……うんっ!」 後ろから聞こえた返事は足音に変わり、背中に被さる温もりに変わった。 返事もだったが、俺の肩に回された腕は震えていた。 しばらくして病室には中村医師と共に、瑛二と二人でロシアでの人体解凍の記事で見た白髪の老医師が立っていた。 わざわざロシアから駆けつけ、独占したいであろう知識を貸してくれたそうだ。 俺は深く頭を下げることしか出来なかったが、彼は俺の肩に手を置き、ニッコリと笑った。 「Спасибо」 彼はその一言だけを置いて、去ってしまった。 後で調べたところ、ロシア語で「ありがとう」の意味だと知って、お礼を言いたいのはこちらの方だ、とこれまた泣いてしまうのだが、その話はまたいつか。 青花の身体を解凍してしまったため、病気の進行は進んでしまう。 そこで青花が目を覚ますのを待たずに薬の投与は始まった。 個室の病室、窓から差し込む夏の鋭い陽で目が眩む。思わず影にした手を退かすと、懐かしい栗色の髪がそこにいた。 眠っているだけのように見えるのに、声をかけても目を覚まさない。 ……もしかしたらもう二度と目を覚まさないかもしれない。 こうして今息をしているだけで奇跡なのだ。撫でると柔らかい毛が指をすり抜ける。 「青花……」 十七年待った。俺が生きる理由。俺がここにいる理由。 どんな言葉でもいいから声が聞きたい。きっと君は歳をとった自分に気付かないのではないか。警戒されるかもしれないし、嫌われてしまうかもしれない。けれどそれでも…… それから更に一ヶ月後、彼が目を覚まし病院中が歓喜に包まれた。 「タチバナハルカが目を覚ました」 十七年待ち望んだ彼の目覚めの報せに心臓がドクンと大きく跳ねる。冷や汗と共に思考が麻痺するのが分かった。 同僚に背中を押されナースステーションから病室へ一目散に走った。 喉が張り付きそうで息が苦しい。 病室へ着くと医師や看護師の人だかり。 掻き分けて行くと医師らの背中の隙間から薄く目を開いた彼の姿。 会いに行きたい、今すぐ駆け寄って抱きしめたい、気持ちが溢れて止まなかったが、同時に怖くなった。 今の自分のことを彼はどう思うだろうか、と。 俺は病室の前で立ち尽くすことしか出来なかった。

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