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第2話 名前
「な……」
白岡先輩が絶句していた。そして、ゆっくりと込み上げて来る羞恥心に表情を歪める。
「なんでっ」
「行きましょう。先輩、ホテル、すぐそこですから」
指定したホテルは同窓会が行われたホテルから歩いてたったの三百メートルのところにある。こっちのホテルはたまに仕事で使うことがあるんだ。上層階にあるレストラン、そこによく顧客を接待したことがあるから。宿泊したことはないけれど、フロントの印象がモダンで気に入ってる。ゴテゴテのシャンデリアなんかない、上質なシンプルさで雰囲気もいい。同窓会もこっちのホテルでやればよかったのに。
そしたら、この寒い中、歩かなくて済んだ。
「あ、すみません。大石から電話だ……もしもし? あぁ、ごめん、先に帰らせてもらったんだ。……ごめん。大石、先輩たちと盛り上がってたから……うん……うん。また、あぁ……近いうちに……それじゃ」
電話をしている間に逃げられてしまうかもしれないと先輩を見ていたけれど、逃げるそぶりもせず、驚きの表情のまま、ずっとこっちを見つめていた。「なんで」そんな単語が頭の中を駆け巡っている、そういう表情だった。それか、先輩の物凄く重要な誰にも知られなくない秘密を知っている俺を警戒しているのかもしれない。
「電話の、大石って覚えてます? うちらの代のキャプテンをしていた。今日、いたんですけど、あいつ人懐こいからずっとあっちこっちで賑やかにしてました」
「……」
「なんかすごいデカくなってて、結婚してから太ったんだそうです。先輩は」
「……」
「先輩はあまり変わってないですね」
いつも、いつでもかっこいい先輩だった。
かっこ良くて、人気者だった。
「なぁ、渡瀬っ」
ホームルームが終わって、さてと、と立ち上がったところで、目の前にぴょんと跳ねるように大きな壁が立ち塞がった。
「お前もバスケ部入るんだろっ?」
「……大石、クン」
隣のクラスの大石のことはよくうちのクラスにも遊びに来ていて知っていた。同じ中学から来てる奴がいるから、ちょこちょこ顔を出していたんだ。
背が高くて、それから声がでかい。そんな印象だった。
「俺もなんだよっ一緒に行こうぜっ」
誰とでもすぐに仲良くなって、もうすでにうちのクラスで同じ中学の奴以外とも普通に話していた。人見知りもしないし、人と話すのが、なんというか、上手だなって。
「そんでさぁ。うちの担任がさぁ」
俺は反対に人見知りもするし、人と話すのがとても下手で、無愛想だと思われることも多くて――。
「あ、先輩だ。おーい、センパーイ!」
すごいでかい声で遠慮なく先を歩いている先輩に声をかける、なんてこと俺には到底出来そうもない。けれど、大石はそんなこと気もせず、ナチュラルにこういうことができてしまう。
(あの先輩誰だっけ? 名前、超ど忘れした)
「え?……ぱいだよ」
(え? 何、聞こえない)
「し、白岡先輩」
「そうだ! 白岡先輩だっ!」
本当にど忘れをしていたらしい大石が、閃いた、とでもいうようにパチンと両手を合わせた。
目の前を歩いていたのは白岡先輩。一つ上の、バスケど素人だった俺は最近そのポジションの名前を知ったんだけれど、フォワード、っていうところにいる。この前の、練習の中で見せてくれたスリーポイントシュートはものすごくかっこ良かった。バスケが上手くて、それで、すごくかっこ良くて、人気者。
「おー、渡瀬に……おお……なんだっけ」
「大石っす!」
「わりぃわりぃ、今年一年生すっごい入ったからまだ全然覚えてなくて」
「大丈夫っす。おれも先輩の名前忘れちゃってましたから」
「はぁ? お前ねぇ、そういうのあっけらかんと」
「あはは」
今さ。
「お前らも今から体育館に行くの?」
「ういっす」
ねぇ、今、先輩、俺のことは苗字、覚えててくれたよね?
「よお、渡瀬」
「! こ、こんにちは!」
覚えててくれた。俺のこと。
そのことに内心小躍りしながら挨拶をしたら、妙に声がひっくり返りそうになって、しかも「こんにちは」とか言い方のせいだけど、元気に挨拶しちゃったから、ちょっとだけ、微妙に変な感じで、先輩も目を丸くした。
「あー、白岡じゃーん」
「おー」
そこに現れたのは多分、先輩のクラスメイト、なんだと思う。少しごつい感じの人だ。
「今から部活?」
「おー」
「何? 今年めちゃくちゃ入部多かったんだろ? なんかすげぇらしいじゃん。男バレの奴が言ってた。その一年ら?」
「そ。渡瀬……と、おおい」
「大石っす!」
ほら、ほらほら、やっぱり、俺の苗字。
「俺の可愛い後輩たちよー」
「!」
ぽんぽん、ってされた。
心臓、壊れちゃうかと思った。先輩が俺の名前を覚えててくれた。ただそれだけでもすごいことなのに。それだけでも嬉しくてたまらないのに。先輩が可愛い後輩って言って、俺の頭に掌を乗せたから。
ぽんぽん。
って、俺の頭を。
「渡瀬……」
貴方に名前を呼んでもらえるだけで胸が弾んだっけ。
一つ上の大人気の先輩。俺ら一年生がやたらと入部したのは先輩のせい、なんて逸話が残ってるくらい。だって、俺らの代で男バスのマネージャーになりたいって女子がものすごかったから。
その先輩に名前を覚えてもらって、呼んでもらえるのは、とても特別なことだった。俺なんて先輩にとってはその他大勢の一人、でしかないから。
けれど俺にとっては本当に特別なこと。
「白岡先輩」
「おい、渡瀬っ! なんで、お前っ」
やっぱり、今でも胸が躍る。
「渡瀬っ、どうしてっ」
「……」
貴方に名前を呼ばれるだけで有頂天になる。
「先輩、この前……」
商社に勤めている。すると色んな人間に遭遇する。色んな人間、色んな趣味、色んな性癖。
「この前、大崎……っていう人のところで仕事したでしょう?」
「?」
あぁ、そうか。名前なんて名乗らないものなのか。これは大崎さんに申し訳ないことをしたな。名前を喋ってしまった。
けれど、あの大崎も口が軽くて、ペラペラと自分が買った男娼のことを個人情報含めてペラペラと無関係な俺に話してたんだから、おあいこだ。
「小太りの四十代男性です。ハリー・ウィンストンオーシャン世界限定十本」
「!」
そこでピンと来たみたいだった。
あの男の自慢の一品だ。いつもそれを身につけていて、これみよがしに会う人には必ずそれを見せびらかす、悪趣味で、いやらしい男。
高級マンションに高級車、高級と名のつくものが何より好きで。道楽らしい道楽だけじゃ飽き足らず、高級と名のつく男娼まで買うようになった。そうして買った高級男娼に自分の妻を抱かせて鑑賞するなんていうゲスで悪趣味な遊びを好む男。でも、まぁ、奥さんも楽しんでいるのなら、それは夫婦としては別に……俺には関係のないことだ。迷惑がかかるわけでもないし。
「相手の身元はしっかりしているし、自分は源氏名だからと安心して、たくさん話したんでしょう?」
ビジネスで嫌々付き合っている。下衆なところも悪趣味なところも、それから口が軽いところも、いやらしい性格をしているところも大嫌いだけれど、あの時だけは、少しその口の軽さに感謝さえしたっけ。
「あの人は口が軽いんです」
おかげで貴方をこうして買えたから。
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