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第4話 ビジネスセックス
こっそりとキスを盗んだ後、あの唇に何人の人が触れたんだろうと思った。羨ましいなって思った。
体育倉庫の独特な埃の匂い。
触れた唇の柔らかさ。
わずかに感じた気がする先輩の寝息。
そして罪悪感はどんどん薄れて、一秒にも満たないそのキスを何度も何度も思い出してた。
「チェックアウトは朝の十一時です」
チェックアウトが遅いのも選んだ理由の一つだった。朝、ゆっくりしてられる方がいいかなって思って。先輩が登校する時あくびをして眠たそうにしているところを何度も見かけたことがあるから。朝が苦手なのかなって。
「それから、お腹、空いてます? お酒、まだ飲むのなら、今、頼みますよ?」
「……いや」
「冷蔵庫にも入ってるので適当に」
先輩は言葉少なに答えると部屋の真ん中に突っ立ったままだ。俺は目印にと使ったまだ少し時期ではなかったオフホワイトのコートとブラウンの鞄を手に持ったまま。
「鍵はここに、置きます」
少しだけ部屋の中へと入り、テーブルにカードキーを置いた。
先輩の自由にできるように。
俺を追い出すのも、先輩が出ていくのでも、なんでも。
主導権はこちらになくて構わないと伝わるように。
「なぁ、渡瀬」
お前など御免だって追い返されるかもしれないから。いくら借金返済のためとはいえ、男相手は無理だと言われるかもしれないから。
だって、先輩の恋愛対象が女性なのは何度も見て知っている。
「三百万って」
「お金は、後で送金するって伝えてあります。スマホであとは送金するだけです」
「なあっ!」
「先輩が承諾してくれたら」
俺はそう言って、スマホを手に持ってみせた。あともう一度スマホの画面に指先が触れたら送金完了になる。
「一晩、五万、残りの返済額三百万。毎日先輩を買ったとして」
「毎日って、渡瀬っ!」
毎日貴方を買う。三百万円分。そしたらちょうど六十日。
「二ヶ月です」
「!」
「そしたら先輩は借金もなく自由です」
「渡瀬……なんで……」
「なんで……」
買ったんだ。ずっと、十一年、ずっと引きずっている初恋を金で買って、あの続きをしたかった。
「先輩に教えてもらおうと思って」
「……は?」
声がひっくり返ってしまわないように、慎重に、慎重に、言葉に出した。貴方が好きだからだなんて、初恋の人だからなんて悟られないように気をつけて。
だってゲイじゃない貴方は好かれたってイヤでしょう? 迷惑だろうし。
けれど、これが金銭的の発生する仕事ならしてくれるかもしれないでしょう?
ほら、あれと同じ。仕事だからできることってたくさんある。そんな感じ。楽しくなくても、好きじゃなくても仕事だからとやれること。
「俺、ゲイなんです」
「……」
「お金、払えば教えてくれますか?」
貴方のビジネスはセックスだから、仕事でなら男も抱いてくれるかもしれないと淡い期待を持ったんだ。
「男の人に抱かれる方法」
あの続き、あの体育倉庫で盗んだキスの続きをしてしまえば、し終えたら、きっと、この何度も何度も夢見ていた、叶うことのない夢、ただの妄想、それを仕舞いにできると思ったんだ。
知らないから知りたくなる。
食べてみたことがないから食べたくなる。
触れたことがないから触れてみたくなる。
けれど、思う存分知れば、食べてみれば、触れてみれば、「へぇ……」って興味は薄れるだろうから。きっと満足できるから。だから――。
「それを、俺に教わりたいの?」
「ダメ、ですか?」
声が震えてしまいそうになるのを必死にこらえた。
「こんなの頼めないでしょ? どこかでそういう相手を見つけるったって、怖いし」
「……二ヶ月?」
「そ、です」
堪えて。
「俺は見ず知らずの、じゃない先輩に教えてもらえて、先輩は」
「残り二ヶ月でこの生活ともさようなら」
「そうです。お互いに利点が」
緊張しているなんて知られないように。
「けど、俺」
「知ってます。ゲイじゃないの。だから、無理ならいいです。そういうのできないなら」
たとえ仕事だと思っても生理的に無理なこともあるかもしれない。拒否られることだって、と想定してたはずなのに、ずっと手に持っていたコートを握りしめる手に力が篭ってしまう。
「渡瀬」
「っ、は、はいっ」
「それ、送金のボタン、押して」
「え?」
何? 今、なんて。
「押していいよ。俺のこと、買って、いいよ」
「っん」
心臓が壊れそうだ。
「ん……ンっ……んンンっ」
腕を掴まれただけ壊れてしまいそうになる。
「んっ……あっ」
「……震えてる」
「っ」
そうもなる、でしょ。
「ご指名ありがとうございます。一晩、五万円、先払いでお願いしてます」
心臓が保たない。
「けど、後輩のお前は後払いでいいよ」
でも心臓が今、壊れたら、やだなって思った。だって、何度も何度も想像したんだ。触れるだけのキスよりももっと深くて濃厚なキスをしてみたいって思ってた。どんな感触なんだろうって。先輩の唇は、舌は。
「平気そうだから」
「?」
また白岡先輩の舌に舌を絡め取られる。
「ちゃんと、勃つみたいだから、平気」
「ん、ンンっ」
舌、柔らかくて、濡れてて。
「お前のこと抱ける」
「ん、んっ」
唾液がだらしなく唇から溢れてしまいそうだ。息、はどうしたらいいんだろう。ねぇ、先輩。
「……渡瀬」
先輩に名前を呼ばれた日は、最高潮に幸せな一日。それなのに今夜はそれ以上のことが味わえるなんて。
先輩。
「あっ……っ」
ほら、ねぇ、どうしよう。上手く返事ができないくらいに舞い上がってしまうんだ。
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