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第7話 初めて
バスルームに映る自分の姿をただ見つめた。
すごいな。こんなにたくさん赤いの……なんだっけ、キスマーク、だっけ? こういうの。
「……」
キスマーク。
じゃあ、この赤いのがついたところ全部に白岡先輩の唇が触れたんだ。ここにも、こんなとこにも。それに胸のところは特に念入りに触れてもらったんだな、なんて。
この身体はちゃんと先輩を気持ち良くさせられいたのだろうか。
「っ」
恐る恐る触れてみた。自分の乳首、なんて触ったことがあるのかないのか、ほとんど意識なんてしたことのない部位だったのに、今、指で触れるとひどく敏感だった。思わず声が溢れてしまいそうなくらい。それだけたくさん触られたんだ、なんて噛み締めて、一人、バスルームの中で赤くなってしまった。
「おーい、渡瀬?」
「は、はいっ」
「……倒れてねぇな」
「はいっ、い、今、出ます」
とりあえずでバスローブでこの赤いキスマークだらけの体を隠すと、扉を開けた。
「……腰、しんどい?」
「あ……いえ」
そしたら、廊下に白岡先輩が立って待っていてくれた。
「まだ、髪、濡れてんじゃん」
「あ、いえ……大丈夫、です」
「……お前さ」
「?」
「いや、なんでもない」
何?
白岡先輩はくすりと笑って、壁に寄りかかるのをやめると部屋へと向かった。
「それにしてもすげぇ眺め」
「……」
「絶景ってやつだな。足元に夜景、ってさ」
窓際、一面ガラスの大きな窓の部屋。
「ほら、ここに立つとまるで空を飛んでる」
「……」
無邪気に笑ってた。両手を広げて、その横顔を夜景で照らしながら。
「すげぇ部屋」
そういえば、白岡先輩だって髪が濡れたままだ。俺より先にシャワーを浴びたのに、まだ髪が濡れていて、ひどく、その……艶かしい。
「すげぇな……」
「先輩?」
俺がそんなことを考えていたら、白岡先輩が口元は笑みを浮かべたまま、でも、少し疲れたように目を閉じた。閉じて、開いて、また足元の夜景を見つめる。
「順風満帆、って思ってた」
「……先輩?」
「大学出て何年かでかいコンサルティング会社で働いて、自信がつくまでそこで勉強して、三十手前で会社を立ち上げる予定だった。大学で知り合った奴と」
単純な話だ。
どこにでもある話だ。
けれど、その話の真ん中にいる人間には酷い話。
その大学で知り合った男と共同経営で会社を作る予定だった。勤め先には恨まれるだろうし、業界的にしてはいけないことだろう。けれど関係ない。強い者が、賢い者が勝っていく業界だと、顧客は引き抜く算段をつけていた。資金はその共同経営の男を中心にしっかり準備した――はずだった。
けれど、強く、賢く者が勝っていく業界で、共同経営をするはずだった男はより一層ズル賢かった。
資金の調達を任せていたはずの男は消えて、その代わりと押しつけられた借金。そして会社からは顧客の引き抜きを画策していたことが知られ、あっという間に解雇。いや、ただの解雇だったらマシだった。裏切り者へ向けられる冷ややか視線の針を何度も突き立てられながらの解雇は悲惨で悲痛なものだった。
もちろん、そんな人間を、会社を裏切るような人間に仕事を頼もうと思う企業なんてない。一瞬で全部を失うことになった。
「もうそこからは嘘みたいな転落人生」
「……」
もうその業界では仕事ができない中での多額の借金。アルバイトでコツコツ稼いで返せる額じゃない。仕事は選んでなんかいられなかった。いや、もうその頃には、考えるのさえ疲れたんだろうと笑ってた。
「見てくれがいいから、いい仕事を紹介してやる。相場以上の支払いをしてくれる、優良企業だって。そこで借金の返済が済むまで身体を売れ、なんて映画みたいだろ」
そう言って、笑ってる。
「同窓会、出るつもりなかったんだ」
「……」
「虚しくなるだけだからな。けど」
今夜の仕事場が近くだった。そして気がついたら、打ち合わせだけは参加していた同窓会の会場に来てしまっていた。
同窓会、主宰は白岡先輩達の代って大石が言ってたっけ。先輩達の代が一番バスケ強かった。顧問の先生も熱を入れて指導してた。そして先輩達が中心になり今回の同窓会を開いた。
「現実逃避ってやつ」
また笑った。
スマホでやりとりしながら。そのスマホの中ではまだ順風満帆だった頃の自分を作れるからなって笑ってる。
「……先輩」
笑ってるけれど、笑ってない。
「……あの」
その先輩の肩に手を置いて、そして、夜景を見つめていた瞳がこっちを向く。俺の方がまだいくらか低いんだ。背が。
先輩が少し視線を下へ、俺へと向けてくれた。
俺は、その先輩へそっと、ただ唇を押しつけた。
「色んな客がいたけど」
やっぱりまだ濡れてる。濡れ髪の先輩は少し、目のやり場に困ってしまう。そんな色っぽい先輩に抱いてもらえたなんて。
「こんなにキスが下手な客、初めてだよ」
「!」
「さっき、教えたろ? キスの仕方」
「あ、あんなに濃厚なのは……」
「ほら、口開けて」
おずおずと舌を伸ばした。ゆっくりと先輩の口の中で舌を絡めて、また擦り付けて。
「……ん」
「さっき、言い掛けたこと」
「?」
「風呂から出てきたお前に言いかけただろ?」
俺のずっとしていた片想いの相手。
もちろん見つめるなんてことはなかった。貴方の視線はいつも他の誰かを見てて、俺はその貴方の横顔や後ろ姿、斜め、そんな角度から盗み見るばかりだったんだ。
「お前さ……」
目が合った、なんて日はもう嬉しくて嬉しくてたまらなかったんだから。
「可愛いよ」
先輩が次にくれたキスはとても優しくて、啄まれた唇をなんとも言えない心地にする。なんだか甘いと感じるほど、心地良かった。
「これ、気に入った? このキスの仕方。すげぇ、可愛い顔」
「ん」
そう言ったらもっと教えてくれるのだろうか。
「いいよ、教えてあげる」
先輩の笑ったところなんて数え切れないほど見たことがあるから知ってる。それが作り笑いなのか、本当に笑ってるのか。見つめ続けていた俺にはわかるんだ。
先輩が笑った。
声に出して、本当にちゃんと笑っていた。
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