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第8話 夢見心地

 キスを、した。  白岡先輩とセックスを……した。  結局、ホテルで一晩を過ごしてしまった。朝、目が覚めると隣に白岡先輩が眠っていて、俺は驚いてしまった。昨夜のことは夢じゃなかったんだって、驚いて、戸惑っていると、隣でうるさくしすぎたんだろう。白岡先輩が笑ってた。  笑って。  すごい寝癖だと、俺の頭を撫でてくれた。 「……寝癖、直し……ワックス」  朝、起きたばかりの時よりは幾分かマシになったけれど、それでもこのまま会社に行くわけにはいかないと薬局へと寄った。  今日は少しだけまだ仕事が残っているから。  手に取ったのは速攻寝癖直しというワックス。頭が爆発でもしたようなものすごい髪型の男性が困った顔をした写真とともにそう書かれている。それを持って、レジへと並ぶ。日曜の朝だからなのか、レジはやたらと混雑していた。  ――え? 渡瀬、これから仕事なの? 休みの日もなんて頑張るねぇ。  そう俺のことを真面目だと言って、先輩は笑っていた。休みなのだけれど、今取り掛かってる仕事のことで少し出ないといけないんだ。昨日、それを片付けずに仕事を切り上げて同窓会ヘ向かったから。  真面目なんかじゃない。  真面目な人間は初恋の人を金で買ったりしない。  金で買った男性にセックスの仕方を教えて欲しいなんて頼まない。  それでも後悔は一つもしていないし、よかったって思ってる。  ね? ほら、真面目なんかじゃないでしょう? 先輩。  とても夢見心地だったんだから。あのファーストキスから十年以上経った。埃の匂いのする体育倉庫で白岡先輩から盗んだキスから約十年後、柔らかいあんなキスをもらったんだ。盗んだんじゃなくもらえた。  それは想像していたキスよりも甘くて濃くて。  ―― そしたら場所、ラブホにするか、ローション用意しねぇと。  また欲しくなる。 「……そうだ」  ワックスを買うだけに寄ったけれど、もう一つ、それを取りにレジを待つ列から外れた。 「あ、先輩、お疲れ様っす、って、どうしたんすか? その髪」 「……いや、これは。っていうか、どうしてお前がいるんだ。日曜だぞ」 「え? だって、まだ終わってないから」  出社してすぐ、がらんどうのオフィスに俺のおかしな髪を見た吉川の素っ頓狂な声がこだました。  ワックスってどうやって使うんだかよくわからなかったんだ。分量を間違えたらしくて、けれどももうベタベタにしてしまった髪は洗わない限り元のようにはなってくれなくて。悪戦苦闘の末、この時間になってしまった。別に今日は休日出勤の残りを片付けるだけだから出社の時間なんて適当で大丈夫。  土曜に仕事で出てくる人間はまぁいるだろうが、日曜は流石に珍しい。自分一人だと思っていた。だから、髪がベタベタだろうが誰かに見られるわけでもないと思ったのに。 「あーあ、バッキバキじゃないっすか。先輩、髪さらさらなのに。さらさらすぎて、うまくまとまらなくて整髪料をつけすぎたんでしょう。もったいない」 「確かに。ずいぶんたくさん使ってしまった」 「いやいや、そっちじゃなくて、もったいないのは先輩の髪の方ですよ。綺麗な髪してるの……に……あの、先輩?」 「? なんだ?」 「あの、虫刺されっすか? それ」 「それ?」  なんのことだろうと首を傾げてから気がついた。首のところ、多分、赤いのがシャツの襟口から見えている。  キスマークだ。昨日、白岡先輩につけてもらった。 「あぁ、そう、虫刺されだ」 「……あはは、買い物行ったんじゃないんすか? どこのジャングルに買い物行ってたんすか。スーツも昨日と同じだし」  そう尋ねる吉川は確かにカジュアルオフィスな服装だった。 「いや、ジャングルには行ってないよ」 「そりゃそうっすよ。冗談っす」 「同窓会に行ってたんだ」 「同窓会っすか? 買い物じゃなくて?」 「買い物もして、それから同窓会もあったんだ。部活の」  そう、買い物もした。とても高価で、けれど俺にしてみたら金額の問題なんかじゃない、とても欲しかったもの。十年欲しいと思い続けていたもの。 「部活の……ですか?」  同窓会といえば普通は学校のクラスだったり同学年で集まるものだから、その不思議なカテゴリーの同窓会に吉川が興味を示してた。 「へぇ、なんか、不思議そうっすね」 「不思議?」 「だって、あんま聞かないっすよ。部活の同窓会なんて」  年齢がバラバラだったから、最初は馴染まず静かなものだった。 「そう、かもな」 「歳もバラバラですよね」 「そうだな。一つ上にすごい人気の先輩がいて」  たった一つしか歳が違わない。それなのに敬語を使って、気も使って。社会人になってしまえばたった一つの年の歳の差なんてどうってことないのに。  憧れでもあった。触れることなんてきっと一生ないと思っていた。先輩が卒業してしまったら、それこそ、もう会うことすらないと思っていたから。 「会えて、楽しかった」 「……」  その人にあんなに近づけたのは初めてだったから。ものすごく楽しかった。 「すごく、懐かしかったよ」  同窓会の時は笑っていない笑顔だった。けれど。  ――それじゃあな、白岡。また後で連絡してくれ。  今日初めてのことがある。  初めて、ポケットに入れているスマホのことを意識している。たいして私用では使わないから、ビジネスの要件にも同じスマホを使ってた。確か吉川は仕事用のと分けているはず。そうしないと友人からの連絡と仕事の連絡がごっちゃになって余計に面倒くさいと話していた。俺は会社に断って、プライベートで使っていたスマホをそのまま使っていた。  かかってくるのは仕事関係の人物からばかり。  ――これ、俺の連絡先。  だったけれど。 「すごく……嬉しかった」  今は、今朝教えてもらった先輩の連絡先がその中に登録されているからだろうか。  ただポケットの中にあるだけで微動だにしないスマホがわずかに振動している気がして、たまにくすぐったくて仕方がなかった。  たくさん笑ってくれていたから。俺と二人っきりの時、あの当時と同じ笑顔を見せてくれたから。しかもあんなに近くで。  だからとても夢見心地すぎて、ほら、また、ポケットの中にあるスマホがくすぐったい。

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