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第9話 浅ましくて
先輩が来てくれなくても構わないと思えるほどには落ち着いてきた。
職場へ向かう時はまだ昨夜の有頂天がそのまま続いていたけれど、ゆっくりだんだんと落ち着いて、仕事を全て片付け終わった頃には、一回だって先輩に抱いてもらえたら充分、と思えるくらいには落ち着けていた。恋愛対象が女性の先輩に男の俺が抱いてもらえるなんてこと、本来ならあり得ないのだから。
だから、もしも先輩が来てくれなくても構わないと冷静に考えながら、一つだけメッセージを送信した。
『こんにちは。昨日はありがとうございました。もしもまた会ってくれるのなら……』
そう綴って、時間と場所を明記した。
メッセージなら無視してそのまま自由の身を満喫することもできるから。けれども。
「……はぁ」
俺のこの性格ってどうにかならないのかな。
諦めが悪いというか、しつこい……本当にそう思う。
だって、先輩は優しい人だから。
だから、また来てくれるかもしれない、そう思って待ち合わせのホテルの前で待ってしまうしつこくて諦めの悪い自分。その足元に一つ大きな溜め息が溢した。
また、してくれるかもしれないって、淡く、いや、どうだろう、溢れるくらいの期待を胸に待ってしまう、浅ましく、諦めるのが下手な自分。
「お前ね」
「!」
その声に足元ばかりを見ていた俺は胸を高鳴らせながら顔を上げた。
「普通、客は部屋で待ってるんだよ。なんで、指定したホテルの前で待ってんだ」
「あっ! ご、ごめっ」
優しい人だから。
「いや、謝ることじゃないけどさ……ほら、今日は少し冷え込むって言ってたから」
来て、くれた。
「中、入ろうぜ? お客様?」
先輩が来てくれた。
商社勤めをしていると色々な人に出会う。接待もよくするし、接待を受けることもよくある。接待の場所だって様々だ。場所が変われば、その日出会う人の様子も変わる。
白岡先輩を買った大崎という男の時の接待が俺はひどく嫌いだった。どこかしらに漂う隠しきれない下衆さにいつも辟易していた。だから、その話をし始めた時は本当にどうしたものかと思ったんだ。大崎はひどく酔っ払っていて、絡み酒がしつこくて。本人もあの時の暴露を覚えているのかどうか定かではないけれど、酒に飲まれてつい喋ってしまったんだろう。
途中から、その二つ黒子がある男の話から、夢中で聞き入っている俺の様子に満足そうだった。そこからはペラペラとよく喋ってたっけ。
俺はそれを聞きながら、羨ましいと思ったんだ。あの黒子に触ったことがあるなんてって。ずるいじゃないかって、そう思ったんだ。
「私服も真面目なのな」
フロントでチェックインを済ませ、エレベーターを待っていたら、ポツリと先輩がそう呟いた。
「ぇ?」
「お前」
「あ……」
「普段もそういう感じ?」
そういう、とは、どんな感じだろう。シャツにスラックス、今の時期だから薄手のコートを羽織ってた。言われて、自分の足元からじっと服装を見つめていたら、小さく鈴の音のようなエレベーターの到着音が鳴った。
「お前、綺麗な顔してるから、そこまでカチッとした私服だと、なんか完璧すぎてさ」
他に誰も乗らないようで、俺と白岡先輩の二人だけ。中に入ると、さっきまでのロビーの賑やかさが閉ざされた空間までは届かず、急に静かになった。
白岡先輩の話す声だけが耳に届いて、心地良い。いつも、この人の周りには人がいて、この人の声だけをこうしてゆっくり堪能するなんてこと、できなかったから。
「もう少し崩した方が似合いそう。隙が少しあるくらいの方が男は好きだよ」
「……先輩も?」
「え?」
「あ、いえっ! なんでも」
バカだな。一般論の話だ。先輩は男が好きなわけじゃないんだから、男から見た好かれる女性像を単純に俺に当てはめてアドバイスをくれただけのこと。
「カーディガンとか似合うと思う。シャツもやめて、柔らかいニットにするとか」
貴方はたくさん女性にモテる。昔からとても人気だったから。歴代の彼女は全て美人と可愛い人ばかりだったっけ。
「その方が寒くないし。その薄手のコートじゃ、この時期、もう夜じゃ寒いだろ。指、冷たい」
きっとこういうところに女性はメロメロになるんだろう。さりげなく手に触れて、指をやんわりと絡め取られたら、ドキドキするに決まってる。
そこでエレベーターが到着した。
取ったのは上層階の一室。
「昨日もだけど、すげぇ部屋」
「……」
「昔は、俺もこういうホテルとかよく使ってたっ……、渡瀬?」
夜景に目を細めながら眺める先輩の首筋にキスをした。唐突に、衝動に駆られて、唇でそこに触れた。二つの黒子。
いつも眺めてばかりだったその二つの黒い星、それを許可も得ずに急に触ってしまった。
バカだ。俺。
たまに本当に自分に呆れる。
抱かれ方を教えて欲しいって頼んだんだろ?
頼んだのはセックスの仕方だ。
恋人じゃない。
けれど今のキスはまるで恋人がしそうだった。
こういう部屋に誰かと寝泊まりしたことがあると言われて、していいはずのない嫉妬をしたんだ。
「ご、ごめんなさいっ」
恥ずかしい。
それに、男が好きなわけでもない先輩にしてみたら、いくらこの前反応してくれたとしたって、こんな急に触れられたら嫌だろうに。やっぱりまだどこか有頂天のままなんだろうか。それともさっき手を触れてくれたりしたから、また有頂天になってしまってるんだろうか。でもあのエレベーターの中で触れてくれたのだって、きっと俺に教えてくれてるだけなんだよ。バカ。男性が恋愛対象だけれど恋愛に疎い俺に教えてくれてるだけなんだ。
「す、すみませんっ、あの、俺っ」
「え、おい、渡瀬」
まるで、今、この人は自分のだって言いたそうに、そんな場所にキスしたりなんてして。
「ごめんなさいっ」
ついさっき、一回だけでも充分なのだから、なんて思ったんじゃなかったっけ?
「渡瀬っ」
恥ずかしい。
「あの、そうだっ、借金完済できました? あの、ちゃんと、わからないけれど契約みたいなのってっ」
「あ、あぁ、できた。借金完済になった。けど、その分を肩代わりしてくれたお前に今は」
「それはよかったです。えっと」
恥ずかしい。
毎日でも抱いてもらうつもりだった? 女性が途切れることなんてないようなこの先輩に? 一回でも充分でしょ? そういう謙虚さとかないわけ?
「おいって、渡瀬」
自分も、今夜も抱いてくれると思い込んじゃって。
「渡瀬っ!」
先輩に強く手を引かれて、ポケットから落ちてしまった。
「……ぁ」
自分のこういうとこ、本当に呆れる。嫌いだ。
「渡瀬、これ」
「!」
自然に滲み出る自分の浅ましさに恥ずかしくなる。それこそ、秘密にするべきプライベートをペラペラと話す下衆らとなんら変わらないのかもしれない。
「……ローション」
けれど、無意識だから修正ができなくて。おひとつどうぞと職場で差し出された菓子折に真っ先に手を伸ばしてしまうような、そんな浅ましさは余計にタチが悪い気がした。
「買ったのか?」
「っ」
―― そしたら場所、ラブホにするか、ローション用意しないと。
そう先輩が言ったから。
「今日買った?」
「っ」
「なぁ、渡瀬」
掴まれた手。先輩の大きな手が俺の手首を掴んで、そして、その長い指が俺の掌を撫でるようにくすぐる。
「っ」
掌の真ん中を、なぞって、撫でて、まるで。
「渡瀬」
「買い、ました。そのラブホテルは、勝手が分からなくて。なので、ローションを」
昨夜、してくれたみたいに。まるで、中を弄って、拡げて、秘密めいた場所をなぞってくれた時みたいに指が俺の掌の内側をくすぐる。
「ローション、を、買いました」
「やっぱさ」
「っ」
そして、昨夜、抱いてくれた時みたいに、キスをくれた。
「お前、可愛いね」
「んっ……ん、ン」
あの時、先輩が女性に買われてると分かった時、俺は羨ましいと思ったんだ。いいなぁ、俺もって思った。俺は恥ずかしいほど、自分に呆れるほど浅ましいから。
「ローション、開けてもいい?」
「あっ……」
ほらね。
「渡瀬」
本当に浅ましいんだ。ちゃんと買ってきた、抱かれる準備を先輩が開封してくれる。俺に使ってくれる、そう思うとさ、ほら、呆れてしまうくらいに胸が高鳴って、奥がじとりと濡れた気がした。
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