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第16話 素質

 不思議な三日間だったなって。  会社に来て行き交う朝の挨拶にそんなことをぼんやりと考えていた。  自分でも突拍子もないことをしてるって思うよ。誰にも言えそうにない。初恋の人を三百万で買ったなんて。  でも、それでも、もうこんな機会は絶対に巡ってこないだろうって思ったから、突拍子なくたって、なんだって――。 「渡瀬さん」 「……おはよう」  振り返ると俺の後輩で普段から仕事を一緒にしている吉川だった。  吉川のほうが出社はいつも早い。俺よりも早くに来て、諸連絡の確認を先に済ませ、優先順位の高いものから俺に伝えてくれる。まだ入って間もないのに気が利いていて、そういう気配りが下手くそな俺にとってはとてもありがたい存在だ。 「お前は振り替えいつだっけ?」 「俺は明後日っす」 「そっか」  そしたら、その明後日は吉川がいない分、どうしても少し普段以上に忙しいだろうなと、小さく溜め息を一つ零した。  俺が昨日、吉川が明後日、この前の土曜日曜の仕事分の振り替え休日の消化がある。本当は土曜日曜の二日分と言いたいところだけれど、土曜日が早く帰りたくて少し強引に仕事を終わらせた。それの皺寄せが日曜日になっただけだから。 「あの案件、上手くいきますかね」 「さぁ、どうかな。そのために休日返上したんだ。上手くいってもらわないと困る」 「そうっすよね。あ、そうだ、メールが来てたんすけど、これ」 「? 何かあったか?」 「これ、なんすけど」 「あぁ」  言われて、吉川のタブレットに視線を移した。  社内での連絡が基本タブレットになってからフットワークが軽くなった。その代わりにスピード感を要求されるようになって、一気に忙しさが増した気はしている。 「いや、この案件はこのまま……吉川?」 「! は、はい! すんません!」 「?」  なんだ? 急に顔を赤くして。  吉川は飄々としている奴で、新卒の若い社員にしてはいつも何にも動じないところがある。物腰がどっしりしているというか。その吉川が珍しくうろたえている。 「あ、そ、そうだ。あの大崎様から連絡ありました」 「……大崎様から」 「次の食事は……」  最初から嫌いな男だった。下衆が表情に、視線に、手つきに滲み出ていて。それがあまりに露骨で滑稽なほどで、大嫌いだった。あの自慢の腕時計が見えるようにと、毎回、シャツの袖元をいじっていたのもいやらしくて。  あの男を接待するのはとても気が滅入っていたけれど。 「あぁ、わかった」  初めてだ。  大崎に合うのが少し楽しみかもしれないと思ったのは。  貴方が奥様に買い与えようとしていた男ならもう売り切れました。 「じゃあ、後でミーティング用の資料作っておいてくれ」 「あ、はい」  もう買い占めました。  でもきっとあの男のことだから、一瞬くらいは悔しがっただろうけれど、でもとても一瞬で、すぐに新しいものを奥様に買い与えるんだろう。とにかく、あの人はもうその仕事はしない。そこにいない。借金はないのだから。 「? 何? 吉川」  ふと吉川の手が俺のジャケットの襟に触れた。何かと思ったと顔を上げて問うとその伸ばした手は無意識だったようで少し目を丸くして、ぱっとその手を引っ込めた。 「吉川?」 「あ、いえ、首元、また赤いのが……」 「あ」  それは多分、今朝のだ。今朝、シャワーを浴びていた時に立ったままシャワ―の湯に打たれながら、後ろからしてもらった時のだ。硬いタイルに手をついて、奥をされると気持ち良くて背中を外らせて喘いでた。抜けてしまうギリギリまで引かれると、名残惜しくて、もっと来て欲しくて、背中を丸めて孔の口を窄めてしまう。  ――やらしい。  そう先輩が俺の耳元で囁いてくれた。その時にうなじを晒すようにする首を垂れるとキスをたくさんしてくれた。それがたまらなく気持ち良くて、達してしまう。達して、また先輩のを締め付けて、それを掻き分けて抉じ開けられるのがまた気持ち良くて。  止まらないかと思った。  遅刻してしまうかと、思った。今日はスーツじゃなかったから。一度うちへ戻らないといけなかったから。けれど、やっぱり気持ち良くて。  ――ぁ、もっと……せんぱっ。 「季節外れの虫刺されだよ」 「……」  その時のキスマーク。それを掌で覆い隠して、自然と緩む口元を吉川に見られないために俯いた。だって見えたそれはほんの欠片だから。  シャツの下にはもっとついてるから。  この三日間でたくさん付いた。 「渡瀬さん、香水ってつけてましたっけ?」 「え? 香水?」 「なんか少し甘い香りが。それとハーブ、かな、何か」 「あぁ……」  わかった。ハーブ、でわかった。 「ボディソープの匂いだ」 「……」  ホテルのだ。  ――あ、ンっ……ぁ、あっ! 先輩、そこ。  ――ミキ。  ――あ、あ、あ、あ、あっ!  たくさんしたから、なのだろうか。  ――あああああああっ!  バスルームに甘い悲鳴が響くのも構わず射精した。  ――っ、……っ、はぁっ…………ミキ。  先輩の荒い呼吸に胸のところをときめかせて、余韻に浸りつつ軽くまた射精して。  ――素質、あると思うよ。  まるでずっと腕力不足で届かなかったスリーポイントシュートが入った時みたいに、褒めてくれた。頭を撫でてくれて、上手だと言ってくれた。  ――男に抱かれる素質。  ――あっン!  上手だと、言ってくれて、蕩けた内側をまだ硬かったペニスで撫でるようにご褒美みたいに小さく突いてくれた。 「それじゃ、吉川、頼んだぞ」 「……あ、はい」  激しかった。 「っ」  三日前まで知らなかったこと。  三日間で覚えたこと。  ――ミキ。  そして、後まだ五十七日もあるって思うと、身体の奥が、じわりと熱くなった。

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