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第20話 熱が引けば
「っぷ、ぷくくく」
腹を抱えて笑った拍子に、この人も酔っ払っているんだろう、ふらりと足元がふらついた。転びはしなかったけれど、それでもまだ笑ってふらふらと身体が横に揺れている。
居酒屋を出てからずっと笑ってる。正確には、居酒屋を出る時、偶然にもトイレにあのタイミングで入ってきた男と鉢合わせをしてから、だ。
――ビビった。いや、だってよ、急にトイレの個室から声が聞こえてさぁ。みき、って女の名前をさぁ。
噂されてた。
まぁ、されるだろう。男子トイレのやけに静かな個室で小さく聞こえた声。女性に多そうな名前と、わずかに耳には入っていただろう布の擦れる小さな音と、ベルトの鳴らす金属音。その条件を並べれば、そこで何をしているかなんて簡単に想像できる。
そして、その何かを想像して男は溜め息をついて。
「みきちゃーん、だって、っぷはははは」
見ず知らずの男にそう名残り惜しそうに呼ばれてる俺の顔を見てからずっと笑ってる。
「そ、そんなに笑うこと、ないじゃないですか」
「っぷ、だって、あははははは」
振り返って、俺を見るなりまた我慢できなくなったと大きな声で笑うから、賑やかな繁華街でもその笑い声はよく響いて、行き交う酔っ払い達がちらりとこっちへ視線を向けた。
そして、笑うのをどうにか堪えて、またこっちを見て、俺の膨れっ面に今度は遠慮しつつもまだ笑ってる。
そりゃ、笑いたくもなる、か。
女と間違われたんだ。こんなただの普通のサラリーマンが。
向こうだって、まさか自分の想像している「みきちゃん」がこんな商社マンだなんて思いもしないだろう。
「まさか会計んとこで鉢合わせするとはさ。ガッツリ勘違いしてたなぁ。女の子だってさ」
どうしてだろう。
自分でさっき取った行動のこと、あの見ず知らずの男性に女性だと勘違いされたことを考えると馬鹿なことをしたと呆れるのに。
先輩にそのことを言われると、嬉しくなる。
「男子トイレに女性連れ込んだら大問題だろ」
「……」
「男だっつうの」
貴方が相手をしたのが男だとちゃんと認識してくれている、そして、それを俺だとわかってくれている、そのことに、その都度嬉しくなる。毎回毎回、貴方が俺を抱いたと口にして言う度に胸をときめかせてしまう。
本当にバカになってしまったのかもしれない。
酒のせいもあった。まだ覚えてたてのあの行為は想像していた以上の味わいだったから、また欲しくなってしまったんだ。それでなくても先輩が「おねだりの仕方」を教えてくれるなんて言うから。
そしてトイレで行為に耽り、達した。
射精した後、熱がゆっくりとひいてきてから、次に戻ってきたのは理性で。
『ご、ごめんなさいっ』
慌ててしまった。
たくさん、たくさん、先輩の手の中に出してしまっていたから。それこそ、指の間から白が滴りそうなほど。夢中すぎてわかっていなかった自分の盛りっぷりに、ゲイじゃない先輩の手をとても汚してしまったことに急いで謝ろうとしたら、「いいよ」と笑って、備え付けのトイレットペーパーで汚れた掌を拭っていた。
そして、俺を見て笑ってた。
欲しがりだなと笑っていたのだろうか。
「ミキ」
「は、はいっ」
事後処理をさせてしまったと反省していたら名前を呼ばれ、顔を上げた。
「ミキ……」
「……」
そして、大きな掌が俺の髪をクシャリとかき混ぜた。
「?」
「お前は本当、可愛いなぁ」
どこがですか。と、言いたいけれど。あまりに憎まれ口を言うともう言ってもらえなくなるかもしれないと、口を噤んでしまう。
先輩に好かれたいと思っている俺は、どの返答が一番上手に気に入られるのかわからないんだ。
大石ならわかるのだろうか。
欲しいと、思ってしまう。トイレでもなんでもいいから、いかがわしい行為に耽ってしまうほどに、先輩を今でも好きな俺はこの人にとても好かれたいけれど。
どうしたらいいのか、わからない。
「っぷ」
「!」
「あははは」
また、笑ってる。
呆れた?
どこでも欲しがる俺を。
でも、またそういうのとも違うような――。
「そんじゃあ、またな」
「え? 先輩は電車じゃないんですか?」
「んー、近いんだわ。歩いて帰れる」
「それならタクシーを」
「平気。この時間タクシー捕まらないし、タクシーで帰るほどの距離でもないし。それに、お前は明日も仕事だろ?」
あ……。
「は、い。明日も、仕事です……」
「ほら、さっき、一気飲みしてフラフラしてた酔っ払いは早く帰りな」
多分、これは嘘だ。
――ほら、お前らは早く帰りなー。
先輩と一緒に途中まででも帰りたくて、どうにかこうにか理由を作って先輩の後を追いかけてた。でも一年は掃除と片付けがあるから、それをとにかく早く終わらせたくて、よく大石はブツクサ文句を言ってたっけ。居残り練習がしたいけれど付き合ってくれる奴がいないと。俺は先輩が帰ってしまうから、とにかく早く帰りたくて。
でも、そうやって必死に追いかけても一緒に帰れるチャンスはあまりなかった。
貴方はいつも誰かが隣にいたから。
彼女が。
そういう時は大概、上級生の一団から外れて帰ってしまう。俺は「先輩」にではなく「上級生」に混ざって帰ってるわけだから、「先輩」の後を追いかけるわけにもいかなくて。お先にどうぞと言われたら、もう、貴方を追いかけることもできなくて、寂しかった。
「それじゃあ……ここで……」
「あぁ」
今の言い方がそれにそっくりだった。
「またな」
「……はい」
――また明日なー。
その手を振る貴方を見る度に思った。
あぁ、ここから先の先輩は誰かのものなんだ、って。ずるいなぁ、いいなぁって羨んだ。
「……」
でも、そもそも、先輩は、その欠片すら、これっぽっちも、俺のものじゃないだって、思ったことを、思い出した。
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