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第31話 痕跡

 一度だけ、先輩がフラれるところを見てしまったことがあった。  部活後、一年生は片付けと掃除がある。先輩たちはそのまま部室で着替えて帰るのだけれど、その日、他の二年生と一緒に帰ったと思った先輩を見かけた。  暗かったけれど、でも先輩だった。いつも見ていたから、見間違えるはずがない。  何をしてるんだろうって、ふと、追いかけたんだ。  確かあそこの角を曲がったはずって思いながら。  そして、その角を曲がろうとしたところで、パン! って乾いた音が響いた。  先輩が頬を打たれた音、そう気がついたのは誰か女子生徒が走り去った後、先輩が頬を掌で撫でたから。それを見て、引っ叩かれたんだと思った。  別れちゃったのかな。  今、付き合ってるのって誰だっけ。  そんなことを考えてたら、溜め息が聞こえた。  大きな、大きな溜め息。  びっくりしたんだ。  あーあ、そんな感じの溜め息だった。  別れてしまった直後にそんな溜め息をつくものなのだろうか。もっと悲しんだりするものなんじゃないだろうか。もっと傷ついてしまったと嘆くものなんじゃないだろうか。  けれど、先輩は溜め息をついた。「あーあ」と溜め息をついて、その場を離れた。  翌日の練習に普通に参加していた先輩の頬には何も残ってなくて、昨日見かけたそれは見間違えただけなのかもしれないと思ったんだ。だってあまりにも何もなかったように普通だったから。けれど。 『お前、またフラれたのかよ〜、あははは、お前さぁ』  そう先輩の同級生が言っていたから、やっぱり別れたんだ。  でも、そっか、あんなに何もなかったのように痕一つなく翌日には消えてしまうものなら、消えてしまう程度のものなら、俺とも付き合ってくれないかな、なんて、バカみたいに思ったっけ。  別れてもあんなふうに「あーあ」で終われるのなら、性別なんてことも気にしないでくれないかな、なんて、思ったっけ。 「手首、痕残った?」 「!」  起きてボーッとしながら手首を眺めてたら、その手首をいきなり掴まれて驚いてしまった。 「眠れない?」 「あ、いえ……」  本当は眠れずにいた。眠くならないのではなくて、眠るのがもったいなくて起きていた。 「あ、ごめんなさい。寒いですよねっ」 「ちょっとね。っていうか、お前、寒くないの?」 「いえ、わっ!」  俺が起きてしまっていると布団に隙間ができてしまうんだと、離れて、ベッドの端へ移動しようとしたら、腕を掴まれて、中へと引き寄せられてしまった。 「肩、冷えてるじゃん」 「……」 「今日は? 土曜出勤?」 「あ、いえ……」 「じゃあ、その手首の、月曜までには消えるよ。多分、若いから」 「先輩と一つしか違わないですよ」 「あはは、けど、一つの差もでかいんだよ。二十九と二十八じゃ」  笑ってる。少しまだ眠そうだ。  昨夜、たくさんしたから。  目隠しをして、手首を縛って、たくさん、したから。何度も何度もイったから。俺も、先輩も。自分の部屋で抱いてもらえる夢見心地のまま。自分から口でしたいなんて懇願するほど興奮してた俺に応えて、いつもよりも先輩が激しくしてくれたから。  目隠してをしてると息遣いが、セックスの音を鮮明に感じた。手首を縛られてると、貴方のものになれたような気がして興奮した。 「痛くはない?」 「え?」 「手首も、それから……ここも」  その残りが手首に残ってるのが嬉しいだなんて、先輩に言ったら、嫌がられるだろうか。 「あっ、へ、平気っ、ですっ」  貴方がまだ中にいるみたいにジンジンするのが好き、なんて言ったら、気持ち悪がられるだろうか。 「お前、色白いからすぐに痕になるの忘れてた」 「そうなんですか?」 「簡単にキスマつくだろ?」 「きすま……」 「キスマークのこと、ほら」  そう言って、腕の内側、シャツを着ていたらわからないところに一つ、先輩がキスをした。チリリと小さく痛んで、そしてそこに赤い痕がついた。 「初めての時、すげぇ付けっちゃってさ。けど、もっと気をつけるよ」 「……ぇ」  なんで? 別に。 「見つかったら、やでしょ?」  誰に? 「ほら、明日休みなら寝坊しろ」 「え? わっ……」  布団を覆い被せられて慌てた。ギュッと抱きしめられて、裸のまま寝てしまった俺は貴方の素肌に朝には不似合いな吐息が溢れしまいそう。 「……それか」 「? 先輩?」 「眠れないなら……」 「あっ……」  溢れてしまった。  朝には不似合いな吐息。 「眠れるように運動しようか?」 「あっ……」  そして先輩の指が浅く孔の口を弄ぶ。 「あっ……ン、先輩っ」 「ミキ」  消えちゃうのか。 「あ、あ、あ、あ」  今、先輩にしがみつく手首に残るこの痕は。  やだな。できることなら残って欲しい。  あの日見かけた、頬をぶった人みたいに、翌日にさえ何も残らないのは、何も起きなかったかのようになるのは寂しいから。  貴方に抱かれた痕跡が身体に残り続けてくれたらいいのに、と甘い声で啼きながら思っていた。

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