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第34話 ベルを五回
「わ、渡瀬様、こ、この度は大変申し訳ございませんっ」
到着した瞬間、五十代半の、その社長が頭を深く下げて、ものすごく口早に謝罪と、今回の不良流出についての弁解をしていた。
多大な損害を御社に与えてしまったと、頭を下げたままだから、所々聞き取りにくい。そこまでこの社長が萎縮してしまったのはきっと俺のこの不機嫌そうな顔のせいもあるんだろう。ここへ来るまで、駅の売店のアルバイトを少し怖がらせてしまったほどには不機嫌な仏頂面をしているようだから。
確かに多大な損害だ。
共通不良品の市場流出。
損害額は相当なものになるだろう。
この会社に融資をしていた我が社は状況の確認、及び、この会社が被る被害額の算出などの確認、頭の痛い出張なんだ。
この社長に代わってすぐのこの不良問題だ。
確か、義理の息子……だったはず。この会社を作ったのは先代で、それを引き継いだ訳だけれど、まぁ、よくある話。優秀だったのは先代。会社を大きくしたのは先代。製品のことを誰よりも理解していたのは先代。彼はそれを丸ごと受け取り背負っただけのことで、技術に長けてる訳でもなければ、製品を熟知している訳でもない。だからこその不良流出ということだ。先代なら市場クレームになる寸でで止められていた。俺が契約を交わしたのはその先代だったから。先代は自分が退く前に経営の安泰を図りたかったんだろうが、この人が社長だったとしたら契約……は、なんて考えるだけナンセンスだけれど。
「はぁ……」
溜め息を小さく零したつもりだったけれど、彼は小心者なのかもしれない。
萎縮させてしまった。
「…………とにかく対策を考えましょう」
そう言うと社長はパッと顔を上げて、目が合うと、またすくみ上がりそうなほど萎縮しながら頭を何度も下げていた。
「……確かに……これは」
萎縮もするかもしれない。
自分でも気がついてなかった眉間のシワを自ら諭すように指で押した。
一日、こんな仏頂面してたのか。それはあの気の弱そうな婿社長は怖かっただろう。手配してくれた宿の女中さんも、萎縮していたっけ。
「……だって」
だって、温泉宿だったんだもの。
「…………」
台無しだったんだもの。
先輩が急に言い出したんだ。
――温泉とか行きたいな。有名な、ザ、温泉宿みたいなとこ。
そうボソッと言って、俺と温泉に行きたいと言う意味なのだろうか、それとも一人で行くのだけれど、それをただ、今、独り言として呟いただけなのだろうか。
俺はどう返事をするのがいいのだろうか。
誘ってもらえているのなら、是非に、と答えたい。けれど、ただの独り言なら、へぇいいですね、と答えるべき。どちらがいいのかと迷っていると、明日、パンフレットもらってくるから一緒に見ようと言ってくれた。
飛び上がるほど嬉しかったんだ。
だからこの仏頂面にだってなるだろ?
今日はパンフレットを一緒に見るはずだったのに、急遽の出張に邪魔をされてしまった。
先輩が温泉行きたいと言っていたのに、今、その温泉に一人でいるだなんて。
ふてくされて、怖い顔にだってなるのは許して欲しい。
「あーあ」
帰ったらパンフレットを改めて見てくれるだろうか。
出張先がザ、温泉宿みたいなところだけれど、場所を変更したり、もうお前は一度行ったのだから一緒にまた行く必要なんてないだろ、って言われやしないだろうか。
「はぁ……」
スーツ姿のまま誰もいない宿の部屋にコロンと転がった。
この不良流出に関しての報告書をまとめておかないと……。
「…………」
温泉、来るなら先輩とがよかったな。
「…………」
だって、ちょうど来週で一ヶ月になる。
「…………」
もう一ヶ月しか残ってないのだから。
「…………」
独り占めしたい。誰にも何にも邪魔されず。もう残り一ヶ月しかないこの権利を振りかざしたい。
――い、行きたいです! 俺、有給ならたんまりあります!
そう言ったら笑ってたっけ。お前、有給たんまり持ってるなよ、って笑ってた。
「…………」
あの時の返答、少しだけテンション上がりすぎたかな。あの人のことが好きってバレていないかな。もうバラしてしまおうかな。だって旅行に誘ってくれるくらいには、その……好感は持ってくれているわけだし。嫌悪感はなく抱いてくれるのだから、そしたら、もう別に性別なんて関係ないんじゃないかな。
「……」
それが、ただ身体の関係だけある、ような二人ならばそうかもしれない。いわゆるセックスフレンドなら。
でも、買ってるから。
何度も何度もセックスしていれば、そこに感情が生まれることは、身体だけの関係ならあり得るだろうけれど、これは生まれない。関係は金で繋げてる訳だから。
仕事だ。
不良が流出すればこうして遠路はるばる対策を練るためにやってくることもあるけれど、無償で何かをしてあげることもしてもらうことも決してない。この関係から来る行動は全て金銭的なものを含んでる。仕事だからどこまで行っても「契約」がついて回る。
どこまでか行けば、いつか期日が来る。
天井に手を翳して、溜め息を――。
「!」
こぼそうとした時だった、その辺に放り出したジャケットのポケットから鈍い振動音が聞こえた。慌てて起き上がり、スマホを見て。
「……はい、もしもし」
落胆してしまった。
「……あぁ、報告書はこれから書くよ」
電話の相手は吉川だったから。
「あぁ、宜しく頼む」
先輩だと思って起き上がってしまった。
きっと電話は来ないのに。
「……はぁ」
俺と先輩の間を繋げてるのは感情じゃなくて金銭、契約、だから、電話は来ない。プライベートタイムに仕事の電話なんて、来ても嫌でしょう? プライベートにまで仕事が浸食してくるのなんてさ。
でも、出てくれるかもしれない。
メールだったらやり取りをしてくれることだってあるのだから、だから。
そう思ってさ、さっきかけてしまったんだ。
鳴らすのは、五回目で耐えられなくてやめてしまったけれど。
十回までは保ちそうになかったんだ。心臓が。五回ならその電話に出なかったのか、出ようと手を伸ばしたところで、こちらから切ってしまったのか曖昧で終われるから。だから切ってしまった。
「全く……俺は……」
なのに、折り返しで電話がかかってくるかもしれない、何かあった? とメッセージが来るかもしれない、なんて耳を澄ます自分がいる。自分で買ったくせにと、眉間を指で押すと、またいつの間にかそこが皺になっていた。
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