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第38話 ベル、十回

 頭が、酷く痛む。  ―― 覚えてるかな、ほら、前に私が話した。  割れてしまいそうだ。  ――男娼のこと。  あぁ、どうしよう。  ――あれ、もう買い切りされたようなんだ。  就業中だったから繕ったけれど、ちゃんとできていただろうか。  ――買ったの、君、なんだろう?  頭が粉々に砕けてしまいそうなほど、酷く、痛い。  ―― あれ、ちょっとこちらで買い戻せないかな。いくらでも払おう。いや、何、君にそれでどうこう言いたいとかじゃないんだ。あれね、引き渡してくれたらいい。それに、そのほうが君のためだ。あれはさ。  本当に。  ――あれはとんでもない男だよ。  痛いんだ。  ――今後。警察沙汰になるから。いや、する、かな。とにかく、そういうことだから。大丈夫。君には仕事で大変よくしてもらっている。心配しなくていいよ。何も迷惑はかけないから。あれはね。  とても。  ――あれは産業スパイだよ。 「渡瀬さん?」 「!」  肩を軽く叩かれて、ハッと顔を上げた。 「あ……吉川」 「大丈夫ですか? あの、顔色が、真っ青ですよ」 「あ……いや」  気がつくと、俺は休憩室のソファに腰を下ろし、頭を抱えていた。電話……電話に出て、あの男と話して、そこからあまり覚えてない。粘り気のあるあの声に気分が悪くなって、その声に先輩のことを「あれ」と言われたことも、「買い切り」と言われたことも、「買い戻し」したいと言われたことも、全てのせいで気分が最悪で、吐きそうだった。 「なんでもない……すまない。今戻るよ」 「いやいや、戻れるって顔色じゃないですよ。ちょっと待っててください」  吉川はそう言うと自動販売機へ行き、少し迷ってからお茶を買って、俺に手渡し、そしてその隣に座った。お茶を買ったってことは本当に顔色が悪かったんだろう。普段、こういう場面で吉川は大概コーヒーを買うから。 「ありがとう」 「……いえ」  冷たいお茶の缶を手でぎゅっと握ると、ひんやりとはあまり感じなかった。自分の手も冷たくなっていたんだ。けれど、それを飲むと、身体が内側から冷水で冷やされていくのを感じる。喉を通って、身体の四方に冷たさが伝って広がっていく。指先は冷え切っていたのに、身体の内側は熱が篭ってた。その温度差に、ひどい目眩と頭痛がしてた。 「あの……こういうの、不躾だと充分わかってるんすけど」  なんでだろう。吉川が言いたいことが、次に何を言おうとしているのかがわかる。これは俺のプライベートなこと。 「先輩のプライベートなんで、あんま俺がどうこう言うべきじゃないと思うんすけど」  正す、のだろう?  俺がしていることを。 「その……あの……」  どうやって知った?  聞きにくそうにしてる。きっとずっと抱え込んでたんだろう。けれど俺のプライベートだからと言わずにいてくれたんだと思う。今、鏡では見ていないから確認できてないけれど、とてもひどい顔色の俺を見かけるまでは言わずにいるべきだと思ってたんだ。でももう見るに見かねて、言うべきだと考えた。  きっとそうだろう。 「大崎様、が」  あぁ、本当にあの男は口から先に生まれてきたんじゃないのか? 「その、すごくえげつない話を聞いて……ちょうど先輩が忙しくて、俺が大崎様のところに現状把握のために赴いた時、なんですけど」  そういえば、連絡を何度か吉川が受けていたっけ。報告はもらっていた。それでも仕事は本当に多忙だったから、吉川がサポートして代理を務めてくれた。  その代理役として、あの男の話す下衆な下ネタを聞いてくれた。その下衆な話題の一つに、きっとあの人のことが。 「その、大崎様が話してた、男性の特徴と、あの、この前、渡瀬さんと一緒に飲んでた男の特徴が」  首筋にある二つの黒子。 「同じ……で」  先輩がスーツを着ていたら、あれは見つけられなかったかもしれない。  けれど、あの人はサラリーマンではないからスーツは着ていない。あの時は何を着ていたんだろう。 「その、そのくらいの時期から先輩、は、色々」  あぁ、思い出した。ニットだ。黒のニット。Vネックの。男性らしい首筋が露呈していてセクシーだったんだ。あの首筋にキスがしたいと思ったのを覚えてる。 「なんか、様子がおかしくて」  あの人のことが俺はいつだって欲しくて、欲しくて。 「前に、虫刺されって言ってたのだって、あれ、キスマークですよね? けど、大崎様からは、だ……男娼……って聞いてます。あんま、そういうのって、それに今まで渡瀬さんってプライベートあんま出さなかったのに、ここ最近は」 「ひどい……か」 「! いえ、そう言うことじゃないんです、けど……でも、やっぱ、相手がそういう商売って言うのは病気とかもあるし、嵌っても」  知ってる。 「嵌ったって、その」  わかってるよ。 「三百万……」 「……ぇ?」  それでも買ったんだ。 「もうあの人は男娼じゃないよ」 「ぇ、あの」 「三百万で俺が買ったから」 「は? あの」  買い切った。  そして、俺のにしたんだ。 「あ、あの、渡瀬さん、そんなことしたって、相手は」 「仕事、心配かけて悪かった。もう少し外の風に当たってから、戻るよ。お茶、ありがとう」 「渡瀬さん!」  俺の男娼にした。  電話をかけたことがあった。一回だけ、ベルは五回鳴らした。それが限界だった。先輩が出てくれないかもしれないと、仕事じゃない、プライベートの時間に仕事の相手からの電話など出ないと決めていたら、悲しいから、あの人が電話に気がつくか気がつかないか、それが曖昧なうちに自分から切ってしまった。  自分から。 「……」  今、ベルは五回目。  でも切らなかった。 「……」  これで、七回目。 「……」  九回。  それでも先輩は電話に出なかった。  仕事だもの。俺は仕事相手だもの。  ――先ほど電話をした件です。今日は、仕事が多忙なので会えません。  だからそうメッセージを送った。そして、オフィスへと戻る時には指先だけでなく身体も冷たく冴えていた。外気で冷えたのかもしれない。でもおかげで、午後はちゃんと仕事ができると思う。ちゃんと、仕事が、できると、思うんだ――。

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