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第39話 雨
「……雨」
オフィスを出ると雨が降っていた。いつも鞄の中に忍ばせている折り畳み傘を出し、防水スプレーはしてあるけれど、でもそう長く歩けば意味がないだろう革靴でパシャンと小さな水溜りを蹴散らした。
雨、だってさ。
この寒い冬に、こんな冷たい雨なんて。
「……」
高校の……あれは、そうだ二年だった。先輩は三年生で、それで俺はあの頃にはスリーポイントシュートがゴールに届くようになってた。一年の頃はちっとも届かなかったから。
だから、あれは俺が二年の五月、梅雨時期のことだった。
冷たくはないけれど、でも気持ちは沈みがちになる長い長い雨降りだった。
三年生が部室で喫煙していたと問題になったんだ。
問題を起こしたとされたのは、日頃から目立っていた白岡先輩を含む数名。
けれど、俺は見たんだ。
雨がずっと止まなくて、鬱陶しいジメジメした感じに辟易としていた頃、運動部の部室のある方から、運動部に属していない三年生が校舎へ歩いていくところを。
二年は何かの都合で授業が終わるのが早くて、けれど、そんな日に限って委員会があると大石がブツクサ文句を言っていた。それで、俺一人が部活に体育館へ向かったんだ。
毎日続く雨に、学校の廊下もなんだか湿っていて、体育館のフロアもやたらと滑らなくなっていて。練習中に先輩たちのバスケットシューズがキュッといつも以上に止まるせいで何度か転んでしまうのを見かけた。
そうだ、早く行って体育館のモップがけをしておこう。そしたら、少しは転ばずに済むかもしれない。
そう思いながら体育館へ向かう長い渡り廊下を駆けていた時だった。
雨音に紛れて聞こえた下品で派手な笑い声。見ると、いわゆる不良たちが校舎に向かう途中だった。
そして、喫煙問題が発生した。
長雨に締め切っていた部室の中に充満したタバコの匂いが証拠だった。部室を使うのは基本三年生だから。狭い部室に全学年が入ることは不可能で、三年になった時のステータス、でもあったんだ。
俺は慌てて職員室で無実だと訴えた。
先輩たちは何もしてない。喫煙をしたのは別の三年だと。
白岡先輩たちからタバコの匂いなんてしたことはない。一度だってそんなことなかったって。必死に訴えたけれど、やっていないことを証明するのは難しくて。バスケ部の部室に残ったタバコの匂いっていう証拠には全く太刀打ちができなかった。訴えても、主張しても、ちっとも信じてもらえない。それに、白岡先輩の印象が最悪に変わってた。やったと言う噂にプラスで白岡先輩の途切れることのない交際相手っていうのも合わさって、もうまるで白岡先輩が別人のようにされて。
俺の訴えは、それに勝てなかった。
けれど、結果としては、無実だと証明された。
先輩たちの持ち物の中にタバコもライターもなかったから。それに、やっぱりタバコの匂いなんてしなかったから。
けれど、俺は何もできなかった。
俺の稚拙な訴えなんて、何も効果がなかった。
守りたかったのに。
俺が先輩を守りたかったのに。
役立たずで悲しかったっけ。
――産業スパイだよ。
昼間のあの人は何をしているんだろう。
俺と会っていない間は何をしているのだろう。
そんなのビジネスだけの関係の人間が知れるわけがない。
けれど、思い出した。
あれは、この間のことだ。俺が急遽行かなければいけない出張から帰ってきてすぐ、あの人に抱いてもらった翌日のことだ。
電話してた。
先輩が誰かと電話しているのが薄っすらと聞こえていた。
何時だったんだろう。
でも普通なら電話なんて非常識な時間帯だった。
けれどとても激しく抱いてもらったから、死んだように寝ていたから、寝ぼけていて、そんなことは気にもしなかった。電話の時間帯も、相手も、何も。あぁ電話をしているのか……とぼんやりと思った程度。
その前に出張で自分の指で宥めた身体はあの人のことがどうしても欲しくて、仕方のない我儘になってて。何度も何度も、してもらった。
そんな夜で、抱かれ疲れて意識が飛んだくらいだったから、とても朧げだった。寝室ではなく隣のリビングから聞こえてきたのもあって、所々しか聞こえなかったけれど。でも。
――フライト時間は。
それが聞こえたのを、仕事の最中に思い出した。
今度は、守りたい。
今度はちゃんと先輩の役に立ちたい。
――おー、やったじゃん! 渡瀬、スリーポイント、ゴールに届いたじゃん。
決して目立たない、可愛がられることもない無愛想な一つ下の後輩でしかない俺のスリーポイントが届かないことを知っていてくれた。
――えらいえらい。
貴方に褒めてもらえると堪らなく嬉しくて、頭を撫でてもらえた日は一日中幸せなほど、貴方のことが好きだから。
貴方の役に立ちたい。
「…………もしもし、大崎さん……すみません」
今度こそ、貴方を守りたい。
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