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第40話 迷い子

 ――あぁ、渡瀬さん。  初恋は実らないと誰かが言った。  俺はそれを聞いて思ったんだ。男女間の初恋が実らないのなら、俺のこれはもう実る以前の問題じゃないかって。でも、あの時、盗んででも味わえて嬉しかった。初恋の人とのファーストキスを。そしてその続きを買えて、とても。  ――じゃあ、電話もあれだから、どこかで話しましょうか。  とても嬉しかったんだ。  ――渡瀬さん。  貴方に抱いてもらえてとても嬉しかったから。この一ヶ月余りの間とてもとっても嬉しくて楽しかったから。それはたったの三百万円じゃ到底足りないほどに幸せだったから。  貴方に返したい。三百万円では足りなかった部分をこれから返してあげたい。 「……」  そう思うのに。身体がイヤだって駄々を捏ねる。  どうにかこうにかして、ダメにしたいと。タクシーを拾えばいいのに、歩いてる。この冷たい雨に、この革靴だ。いくら防水スプレーをしていたって、水溜りだってお構いなしで歩いてればどうしたって濡れる。傘も差さずに。  持っているくせに、さっきまで傘を差してたくせに、しまってしまった。  濡れ鼠は嫌われるかな、なんて思って。  スマホ、壊れないから。水に強いのなんて買わなければよかった。そしたら、電話が壊れてしまって、とかなんとか理由をつけて行かずに済んだり……しないかな。  他には何かないかな。  ――ホテルがいい。レストランでなんてする会話じゃないですから。  あと、他には、なんでもいいから、ダメにできないかな。  ――ホテルで待ってますよ。  きっとあの男は俺にそういう接待をさせたい。  先輩を買ったのを知っていたのだから。男娼だった先輩を買った理由なんてさ。それでなくても下衆なことしか頭にないような男なのだから、そっちのことに即繋がるだろう。俺が先輩を買って、抱いてもらっていたのだろうと。男に抱かれるのが好きなんだろうと。  それなら、自分も味見がしてみたい。  そういうことを平気で思いつく男なんだ。  気持ち悪い。 「……」  ホテルは。  あの男が言っていたホテルは歩いて一時間ほどかかる場所にあった。商談の多い仕事だ。接待であっちこっちのホテルにあるレストランを使うことがある。遠方からわざわざ商談のためにお越し願うこともあるからホテルは最適なんだ。だから、名前と場所を聞けば、それだけで迷子にならずに到着できてしまう。  運動は苦手だったし、歌も上手じゃないけれど、方向音痴ではなかった。  あれは大会で、知らない高校へ行った時だった。駅から遠く離れてて、顧問の先生とは相手校で落ち合うことになっていた。俺たちは自力で行かないといけなくて、けれど、先輩たちは迷ってしまってて。右かな、左かな、目印の郵便局どこなんだよ。なんて話し合ってる先輩たちを後ろで眺めてた。  どうしよう、言ってもいいかな、ダメかな。でも、ここで迷子になってるよりかは、でもでも、やっぱり。そう迷っていたら。  ――渡瀬?  先輩が気がついてくれた。口下手な俺が背後できっとオロオロしていたんだろう。振り返ってくれて。それで俺は右を曲がって左、だと思うと伝えた。  ――すげぇな。渡瀬。ありがとな。  俺の案内でそこからは迷子にならずに到着したんだ。  先輩に褒めてもらえて嬉しかったっけ。あの人の役に立てたのがすごく嬉しかった。だからレギュラーで活躍する貴方を声が枯れそうなほど必死に応援した。貴方に俺の声が届かなくてもいいから、それでもたくさん、少しでも貴方の力になれたらと、声を振り絞ったんだ。  笑ってしまうほど、みすぼらしい濡れ鼠にホテルにいた客たちが視線を送る。コンビニだってあっちこっちにあるのに傘も買わずに、スーツをダメにしてしまいそうなほど濡れて。ホテルの人間もイヤだろうな。入ってはいけないと止められないかな。  なんて。  たくさん抱いてもらったでしょう?  初恋のあの人ももしかしたら、とてもとっても好みではない客を抱いていたかもしれないでしょう?  我慢して。  先輩を助けるためだから。  一回くらい我慢なさい。  たくさん、たくさん抱いてもらったのだから、一回のそれなんて大したことではないほど、たくさん可愛がってもらえたのだから。記憶を、今夜のことをきっと消せるから。  あの男に言う通りのものを差し出して、代わりに先輩のことはなしにしてもらうのだろう?  フライト時間、と言っていた。そしたら、海外に行くのだろうから逃げられる。先輩が海外へ行ってしまえば、逃げてしまえば、俺は我慢しなくていいのだから。  だから。  あぁ、でもそしたら、もう先輩はいないのか。日本に。もう会えないのか。 「……はは」  思わず笑ってしまった。  何を、バカだな。その時が来なくても、あと一ヶ月もしないで俺はどちらにしてももう先輩に会えないのだから。会えても、もうその時は三百万で買った時間分はお仕舞いになっている。  会えたとしても、その時は、俺は後輩で、あの人は先輩ってだけの関係になる。  いつだって、俺は先輩って呼んできたじゃないか。 「……先輩」  そう呼んできた。  ほら、もう観念して、接待をしないと。この身体を。 「先輩」  売らないと。  手が震えてしまう。今、扉の向こうに行くを怖いと、イヤだと、ノックをする手が震えてしまう。 「せん、」 「バカ」  その手を掴んでくれた。 「お前、何してんの」  強く、強く掴んでくれた。 「ミキ」  先輩の手が俺を掴んで、くれたんだ。

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