41 / 74
第41話 告白
「お前、何してんの」
扉をノックしようとした手を貴方が掴んでくれた。
「ミキ」
その時、自分の手が震えてると、気がついた。
「な、なんで、先輩がっ」
先輩には、仕事が多忙だから今日は会えないと連絡を入れておいた。そんなことは初めてじゃない。貴方を買ってからもう一ヶ月になるけれど、その中で仕事のせいで会わずにいた日だってあったのに。なんで今回だけ。
「電話しただろ」
「!」
「電話して、それからメッセージが来てたから」
そう、貴方に電話をした。十回もベルを鳴らしてしまった。
「お前が電話をしてきたことなんてほとんどないから、もしかしたらって思ったんだよ」
「あ、の」
昼間の貴方は何をしているんだろう。俺が仕事をしている間は一体どこにいて、何をしてるんだろう。俺が電話をしただけで貴方は俺をこうして見つけてくれるけれど、俺は貴方のことをちっとも知らない。
「おいで、ミキ」
「あ、あの、でもっ、俺」
「今からここに借金の取り立てと、あの男が勤めていた会社の役員たちと、それからもしかしたら警察も来るぞ」
「え? あ、あのっ」
「俺がリークしておいた」
「は? なんでっ、何を」
「いいから」
何も知らないけれど、でも、こんなふうに現れるから。
「あ、あのっ先輩っ」
「おいで」
まるで、ヒーローみたいだと、そう思った。
産業スパイをしていたのは、大崎だった。確かに大崎の勤めている会社には高い技術力がある。だからこそ、うちも商談を持ちかけたんだ。
大崎は、その技術を他企業に売っていたんだ。
段々とエスカレートする豪遊ぶりに、ふと妻が疑念を持った。この遊んでいる金は給料からではない。それならどこから? そして、逃げたいと助けを先輩に求めてきた。
「それで、フライト時間……」
「電話、聞いてたんだ?」
「少しだけ」
「そ。彼女はそのうち海外に逃亡。彼女は動けないから、俺が代わりに手配をしてあげてたんだ」
そして、これからのあの部屋にやってくる借金の取り立てに、勤め先の人間に、大崎は揉みくちゃにされる。
「なんで、先輩に」
「なんでだろうね。けど、彼女も大崎にしてみたらアクセサリーの一つだったから、相談できる場所は限られてたんだと思うよ」
美人なのだそうだ。ハリー・ウィンストンオーシャン世界限定十本のうちの一つ、と同じ。コレクションの中の一つ。だから、彼女が主である大崎に対して抱いた疑念を相談する場所なんてなかった。彼の横に世界に十本しかない時計と一緒に並んでいるだけの存在。
「で、俺が会社をどうにかして立ち上げたいと、日中、歩き回ってたら、偶然、会ってさ」
「……ぇ」
「プランとしては悪くなかったと思うんだ。コンサルティングの会社。で、諦めずにどうにかできないかなってさ」
まずは会社を立ち上げるための資金をどうにかしないとって、銀行を巡っていた時、彼女に出くわした。
――貴方! ねぇ、助けて欲しいのっ。
「実は大崎のいる、あの会社、前に勤めてた時に少しね、仕事で関わったことがあるからさ。だから、会ったこともあるんだ。大崎に」
「……ぇ」
「大崎は気がつかなかったみたいだけどな。彼女、奥さんの方は、その当時、俺のことをどこかで見かけたことがあって、なんとなく覚えてたって、二人でシャワーを浴びてた時にこっそり言われたんだよ」
男娼をする前に、サラリーマンをしていた頃に会ったことがあった。それは先輩にとってとても嫌なことだっただろう。身を落とす前の自分が接したことのある人間に、身を落としてからまた出会うのはきっと苦しかった。
「にしても、さっむ! お前、こんな雨の中びしょ濡れで寒くなかったの?」
「ご、ごめんなさい」
「いいけどさ」
俺がずぶ濡れのせいでタクシーは乗車拒否されてしまう。かといって、この格好で電車に乗るのも、視線が気になる。
俺は一人でどうにでもしますから、どうか先輩はタクシーで帰ってください、俺になんて気を使わなくていいからと、掴んでくれていた手を解こうとした。ずぶ濡れでない先輩ならタクシーだって、電車だって大丈夫でしょう? そう思ったのに。先輩は手を離すことはせずに、ただ。
――バーカ。
そう言って、手を掴んだまま、ホテルを出て、冷たい、冷たい雨の中に俺と入ってしまった。
「雨に打たれたくなる気持ちがわかるからさ」
「……」
「俺が、初めてあの仕事をした時もちょうど雨でさ」
その日、仕事を終えてホテルを出たら雨が降っていて、来る時には降っていなかったのに、と空を見上げた。天気予報を気にする余裕もなかった初仕事。
「でも、その初仕事をこなせた自分に苦笑いをしてた」
「……」
「なんだ、できるじゃんって。向いてるんじゃない? って思ったくらい」
そう言って、今、俯きながら零した笑顔を俺は見たことがある。あの同窓会のあった晩にも同じ笑顔を見せてた。
「似合いの仕事だって、自分でさ」
ふと、思い出した。
―― いいよ。へーき……っていうか、汚くないから。ちっとも。俺の方がずっと。
初めて抱いてもらった晩、先輩はシャワーも浴びてない俺が汚いと慌てたら、そう言ってた。
俺の方がずっと、汚い――そういう言葉が続きそうだった。
「……くない」
「ミキ?」
俺は貴方のことを知らない。今まで何をしていたのか。今、昼間にどこで何をしているのか。
知らなかった。
何も知らないけれど、でも知ってることもある。
貴方の手は温かいって。
一つ上の先輩が、学校で、教室でどんななのかはわからない。どんなふうに授業を受けてるのかもわからない。彼女と二人っきりの時がどんななのかも知らない。俺が知ってるのはバスケ部に来た時の貴方だけ。廊下ですれ違うことがある数秒だけ。それでも頭を撫でてくれる手は温かくて優しかったから。
優しい人だと。
そして、先輩がその手で引っ張ってくれた。力強く、けれど、手首を掴んでくれるその手はひどく優しくて、あったかくて、雨で冷え切ってしまっていたらしい身体にはとても、とっても優しい。
あの頃と何も変わらない手だった。
「貴方は汚くない」
「……ミキ」
「貴方は……」
その手が好きだった。
「貴方は俺の」
今も好き。
「ただ……俺の、好きな人です」
今も、すごく好き。
ともだちにシェアしよう!